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映画DSODでどうしても「?」と思ったこと。海馬は死んだ??【遊戯王 感想 考察 劇場版 原作】

 

※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、他の方の考えを否定したり、作品を貶めるものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。

 

 

 

 

1.はじめに

このブログ記事を書いているひとは遊戯の声が緒方恵美だった頃のアニメを見て育ちましたが、それ以降は某動画サイトでネタにされているのを見かけるくらいで、他の遊戯王シリーズにはほとんど触れることなく劇場版THE DARK SIDE OF DIMENTIONS(以下、映画DSOD)を観て遊戯王にハマりました。

観る前:あ〜遊戯王か〜途中で声が変わってカードゲームやるようになってから全然見てないんだよな〜MADとかネタのイメージしかないけど映画なら体力使わないしちょっと見てみるか〜

観た後:ちょ……原作全巻買ってくる

なんの予備知識もなく見に行って一瞬で心を鷲掴みにされ、本作が単発の映画として桁外れに魅力的で優れた映像作品だったことは疑いようもありません。

しかしながら、後追い的に原作を読み進めた私はかえって映画DSODのストーリーに奇妙さを覚え、ハマったきっかけの作品に対して疑問を持つという見事なこじらせを発症。

本稿はなんでそんなことになってしまったのか自分の頭の中を整理する意味での雑記であり、他の方の考えを否定するものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。

 

 

2.「世界海馬ランド計画」どうなった ……?

 

原作バトルシティ編の終わりで海馬は養父への憎悪と向き合い 、幼い頃からの本来の夢である「世界海馬ランド計画」 のためアメリカへと旅立ち、メインキャラとしての区切りを迎えています。なので遡って原作を読んだとき、私は映画DSODのストーリーに少し違和感を覚えました。

もちろん、映画DSODでの結末もあり得る1つの未来だと思います。しかしこの映画での後付けのせいで、海馬は結局、目先の勝ち負け( 幼少期に義父から与えられた屈辱やトラウマを思い起こさせるもの、敗北=死という呪縛) に囚われ続けているキャラになってしまった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画DSODを初めて観終えたときの私は、原作での海馬は闇遊戯との決闘に関してよほど悔いの残る終わり方をした(決着がつかないまま中断してしまったとか)か、他の重要キャラに枠をとられてかなり中途半端な扱いのまま本編が終了してしまったのだろうと思っていました。しかし実際に原作を読んでみると……

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『海馬… 今は敗れて憎しみに打ち勝て!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『瓦礫の底に眠る…オレのロード(夢)…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『海馬くんは新たな夢に向かって旅立ったんだね…』

『ああ』

『そして…もう一人のボクの記憶探しの旅も今 始まったんだ!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

あれっめっちゃいい感じに終わってね??!

確かにバトル・シティ編で海馬は闇遊戯に敗れています。そこで海馬は敗北という目の前の憎悪と同時に義父への憎悪とも向き合い、その象徴であったアルカトラズ(憎しみの塔)を爆破し海に沈めました。闇遊戯との決闘も、幼少期のトラウマも、マンガの話しとしてはいったんそこで決着が付いていたはず。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

なのに映画DSODではそんなこと無かったかのように、その憎悪を闇遊戯(アテム)との決着に対する「執着」という形でさらにこじらせている。

あの話しって原作本編が終了から半年後とかの設定ですよね…原作の続編と銘打っておきながら、もうこの時点で原作のストーリーを踏み倒しにきてます。

勝ち負けそのものというより好敵手としてのアテム個人に執着している(アテムが自分に無断で冥界に還ったので躍起になっている。アテムとの決闘を愛している。)というような解釈は一応成り立つものの、なら海馬はなぜ遠く離れたアメリカでの事業のため旅立ったのかという話しになるし(活動の拠点をアテムのいる日本からアメリカに移す= "アテムに関係なく自分の道を行く" って意味だよな…?)、彼の本来の夢である「世界海馬ランド計画」を放り出してまでアテム個人に執着し続けるというのは、もはや作中に描かれたキャラクターのアイデンティティが崩壊しています。(むしろ同人誌であれば好きな展開です)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画本編とその前日譚である読み切りマンガトランセンド・ゲーム』おいて、海馬はかなり本格的な軌道エレベーターと宇宙ステーションを作りあげ、アテムを地上に蘇らせること、そして次元上昇の方法を探っていました。あれだけ大がかりな宇宙開発を一企業が行うには、社運をかける勢いで巨額の予算を注ぎ込み海馬自身もそれにかかりきりでなければならなかったでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

幼い頃の海馬が弟モクバと誓い合った夢「世界海馬ランド計画」は、次元上昇(アテムのいる冥界へ行くこと)を最終目的とするニューロンズ計画」へとすげ替えられてしまいました。バトル・シティでアテムとの決闘に敗れ、そのリベンジマッチを果たせなかったという理由だけで。

 

海馬というキャラクターの終着点 2020.5.25 追記

幼少時代の海馬は『世界中に遊園地を作ること』が夢だと語っていました。それは海馬ランドという  " 箱モノ "  を作ることではなく、幼少期の自分たちのような施設で暮らす子どもであっても、誰でも、みんなが遊べる空間を作ること。それが海馬の夢です。

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(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そう考えると、最終的な目的は次元上昇にあるとはいえ「デュエル・リンクス」という世界を作りあげたことで、一見すると海馬の夢は形になったかに思えます。「海馬ランド」という前時代的な箱モノ計画が、端末さえあれば誰でも世界中どこからでもアクセスできる、時代の最先端を行くバーチャルリアリティの世界へと昇華されたわけです。となれば、もはや現世に悔いなしと会社を弟に託し、冥界へ行くという流れが生まれてもおかしくないように思えるかもしれません。

しかし、ここで我々が思い出すべきなのは、海馬というキャラクターの終着点、ゴールがそもそもどこにあったのかという話しでしょう。それは、義父にイカサマゲームを仕組んだことをきっかけに捻じ曲げられ、海馬が失ってしまったもの。目的を果たすための単なる手段としてではなく、弟や仲間たちとただチェスを楽しんでいた本来の「心」を取り戻し、幼少時代の純粋な夢を思い出す(叶える)ことです。

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『あの日…イカサマゲームなんかやらなければ…兄サマは昔の兄サマのままでオレのそばにいてくれたかも知れないのに

『今 海馬は闇の中で自分の「心」のかけらを拾い集めている…』

(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬は単に慈善活動がしたかったわけではない。親はいなくとも施設で過ごした楽しい思い出があるからこそ、自分と同じ境遇の子どもたちとそれを共有したかった、そのための場所が『この施設にいるような 親のいない子供はタダで遊べる遊園地』なのであり、「海馬ランド」です。それこそが、原作DEATH-T編から繋がりバトル・シティ編のラストで提示された海馬の未来、彼のだったはず。

「デュエル・リンクス」の世界に海馬の夢はあるでしょうか……?無いですよね。少なくとも映画や前日譚の中で描ききられている内容を見る限りでは、リンクスの世界は海馬にとってあくまで次元上昇を叶えるため、アテムとの再戦を果たすという目的のための手段の一つです。これが海馬の夢であり終着点(ゴール)だと言えるでしょうか……?

(おそらく劇場版DSODの制作陣は、というか原作者でさえ、あまり昔に描いたことを意識して作品を作っていないと思います。当ブログみたいに細かいことをいちいち気にしてその場のノリで全てを楽しむことができないようなタイプの読者・視聴者をこのコンテンツはターゲットにしていないでしょう。言ってしまえばこのブログ記事そのものがナンセンスです。ラーメン屋に入ってパスタを要求しているようなものなので…。パスタを食いたいならサイゼ行けばという話し。)

 

 

3.「原作の続編」としてこの映画を作った意味……?

 

映画DSODの海馬は一見すると超ストイックに自分と向き合っているようでいて、闇遊戯に "敗北した" という事実と向き合えておらず、打ち勝てていない。敗北した自分を受け入れられない、許せないからこそアテムの影に囚われ、再戦を願う。これでは義父の呪縛にも未だ囚われたままということになりませんか?

他のキャラクター達は未来へと一歩を踏み出していく中で、海馬だけがアテムとの勝ち負けにいつまでも執着し続け、最後は自身の夢を担う会社も大切な弟も全てを置き去りに、冥界へ行ってしまう。

結果として海馬は好敵手アテムとの決闘に全てを捧げました。この映画のストーリーは胸躍る熱い物語であり、ラストシーンは壮絶で感動的であり、海馬の人生は痺れるようなカッコイイ生き様です。しかし、「原作の続編」と銘打ってこの話しをやる必要があったんでしょうか??(エンドロールの後で冥界から無事帰還する海馬の様子が描かれてたならまだ納得できた)

 

目的のためには手段を選ばず、命すら投げ出してしまう海馬の姿勢は、ヒロインである杏子によって一度完全に否定されています(この時の海馬は自分のためではなく弟のモクバを救うために闘っていました)。王国編でのそのシーンは作品テーマに関わるものであり、読者への提示でもあったはずです。『どんな時でも自分の手の中で命のチップを守り続ける』、つまり表遊戯のような人こそが本当に勇気ある芯の強い人なのだと。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この海馬の生き様もまた強さの一つだと言うなら、原作の続編を銘打った映画として、過去に作中で描いたことに対する反論をしっかりと筋を通して描くべきではないですか? (映画DSODでその海馬の生きざまが肯定的に描かれたこと自体はすごい嬉しかったです。)

仮にアテムとの決闘に勝ち、冥界から帰還できたとして、長い人生の中では負けることもある(それでも憎しみに打ち勝っていかねばならない)ということに海馬は耐性が無いままです。その様な状態で、海馬は王国編やバトル・シティ編をやっていた当時から成長したと言えるのでしょうか……?ましてや冥界に行ってそれきり(現世の人からすれば海馬は亡くなった)という最期で筋が通るでしょうか……?

というか古代では(やむなく変更されたという本来の構想では)キサラの復讐のためアテムを裏切り、現代になると今度はアテムのために全てを投げ出し、やっていることが少し刹那的すぎやしませんか……?

もちろん神官セトと海馬はまったくの同一人物というわけではないし、海馬の幼少期からの傷痕がそんなすぐに癒えるわけもないでしょう。それでも海馬の人生はカードゲームのためにあったわけではないし、 闇遊戯との決闘に負けたことで人生そのものをつまずかせてしまうようなキャラでもない、だからこそ弟のモクバと共にアメリカへ旅立って行ったのではなかったですか?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬と闇遊戯のそれぞれの闘い、闇遊戯は自分探し(記憶をめぐる闘い)、そして海馬はこれからも「義父への憎悪」と向き合っていく。勝負には負けたとしても憎しみに打ち勝っていくため、『己の中に巣食う憎しみという魔物』との終わりなき闘いのロードを歩み続けるため。闇遊戯に勝った負けたとかよりも、もっと大きな目標、本来の海馬自身の本当ののために。

 

 

4.海馬は冥界に行ったたま帰ってこない(死んだ)のか?

 

結論を言うと

死んでない

と思います。(臨死体験くらいはしたのかもしれないが……)

藍神との決闘が終わりアテムがまた冥界に帰って行った直後のシーン。海馬は表遊戯のことを一人の決闘者として認め、微笑みをたたえて去っていきます。そこでの様子から、自分が認めた強い相手との決闘を純粋に楽しむというような心はどこかに芽生えている印象を受けました。しかしやはり、そもそもの海馬の人生の目的は強い相手と決闘をすることでも、アテムに決闘で勝つことでもましてや愛だとかのためでもない。

海馬は未来へと進むために冥界へ行ったはずです。

アテムとの決着のため冥界へと突撃していくラストシーンは、このまま過去(アテムの影、敗北=死という呪縛を海馬に植え付けた義父の影)に囚われながら生きるくらいならリスクを冒してでも冥界へ行き、過去に対して決着をつけるという海馬の未来への意志であり、決してゴールではない、再出発のスタートラインです。

未来へと一歩を踏み出していくキャラクター達を描いたこの映画のテーマに対する回答があのラストシーンであるなら、海馬は冥界へ行った後(アテムとの決闘の勝敗がどうであれ)現世に帰還しなければならないと当ブログは考えています。(これは当ブログが勝手にそう考えているというだけの話しであり、他の方の考えを否定するものでは決してないです)

弟のモクバに後を託すような言動が随所で見受けられますが、トップとして優秀な人ほどもしもの場合を考えて手を打っておくものだと思います。弟に自分がいない間の会社を託すことと最悪の場合は死をも覚悟していること、この二つは矛盾しません。

ラストシーンで海馬が冥界にたどり着きアテムと出会ったところで物語の幕が下りるのは、そこでの決闘を最期に海馬の人生(ストーリー)も終わるということではない、ここまできてアテムと海馬のどっちが勝つとか負けるとかの話しをするのは野暮であり描く必要がないので、勝負の行方を視聴者にゆだねるための演出上の構成でしょう。

 

追記:このラストシーンで海馬が向かった先が「過去の世界」ではないことは原作者が明言しています。

 

 

原作者によって提示された『ひとつの未来のストーリー』

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Instagram

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス)

原作者のインスタグラムで公開されたイラスト等をみるに、原作者個人の中では海馬は冥界に行ったまま帰らない=死んだ…のではなく、現世で表遊戯(自分が認めた相手)と新しいゲームの世界を創造していくというような未来が想定されているようで、個人的にはかなり安心しました。そうそう!!それだよそれ!!!!ありがとうマジで!!!

原作者は例のイラストを公開した自身のインスタグラムで『これもひとつの未来のストーリーです』とコメントしていますが、その真意はおそらく(多分)、劇場版DSODのラストシーンは観る側に解釈を委ねるように描かれているのに原作者が結末を提示して受け取り手の想像を縛ってしまう……という事態を避ける意図があったでしょう。あのインスタグラムの世界はいわばファンサービスという文脈の中で原作者が個人的に描いたイラストを公開したものであって、正規のプロの仕事としての表現ではないし、そういう方法で作品を補足するというやり方は王道ではありません。

しかし当ブログは原作者が提示したひとつの未来をめっちゃ支持します。

 

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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜後編〜【遊戯王 漫画 原作 DM 考察 感想】

 

 

3.テーマの転換「勧善懲悪から、平和主義へ」

 

「罰ゲーム!」悪人を裁くダークヒーロー

前述の通り、もともとの闇遊戯はダークヒーローであり悪を裁く「正義の番人」でした。
ゲームのルールという見えないパワーで悪人を殴り倒す。それが連載当初の本作のテーマです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ここでの悪人とは絶対悪であり、同情の余地がないよう徹底的に悪く描かれます。悪ければ悪いほど、そんな悪人の卑劣な横やりで遊戯たちの友情は壊れはしないことの証明になる。主人公が体現していたのは勧善懲悪の物語でした。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

「善も悪もない」亡国のファラオ

闇遊戯の設定が変更され古代エジプトのファラオ」になったことで、当初の「勧善懲悪」路線はガラリと変わりました。

「ファラオの記憶編」において、闇遊戯(アテム)は民を思いやり平和を愛するファラオとして描かれます。しかしその一方で、アテムの父親である先王アクナムカノン治世下でのクル・エルナ村虐殺など為政者の負の側面が強調され、やがてアテム治世下の第18王朝は、虐殺を生き残った復讐者「盗賊王バクラ」の出現により崩壊を始めます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

悪人に報復し裁きをくだす側だった闇遊戯が、今度は報復され裁かれる側になっているのです。盗賊王バクラは、この世には善も悪も無い、ただ自身の正義を「善」と主張し合うだけだと言ってこれまでの闇遊戯の「勧善懲悪」的な正義を否定しました。

原作者の反権力思想や反戦思想が反映されたためか、ファラオとなってからの闇遊戯は「善とはなにか?悪とはなにか?自分は本当に正しいのか?」と迷うように描かれます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この「視点が変われば正義も変わる、よって善も悪もない」とした上でそれでも平和のために戦う主人公を描く一見奥深いテーマは、「友情」というものに絶対的な「善」属性を与え、一方でそれを踏みにじる者には絶対的な「悪」属性を与えてそれを主人公に倒させてきた原作者自身の作風とは相性が良くありません。当初は勧善懲悪のダークヒーローとして描かれていた闇遊戯の存在意義や当時の作品テーマさえも否定してしまうブーメランのような論法です。

多角的な視点からの描写に成功しているというよりは、単にテーマが散らかっていて、その時の原作者の気分で描きたいと思ったことによってキャラクターたちの立場や主義やコンセプトまでもがコロコロと変わっているように見えるのです。

しかし結果として正統派ヒーロー色が強くなったことで、闇遊戯との別れは爽やかなものになり、物語としての後味は非常に良くなりました。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

後に文庫版が出版された際、原作者はあとがきで『千年パズルの中で、悪として融合しようとするゾーク(略)』とコメントしています。この後付けによって実質、当初の闇遊戯はゾークの悪に半分染まっているうえ記憶喪失中だから本来のアテムではない(本来のアテムは一方的に「悪」を決め付けて裁くことはしない)というような意味合いに作品が上書き修正されました。

 

4.闇遊戯から「墓を守る番人」ポジションを受け継いだマハード

 

「  番人 VS 盗賊  」 

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

"墓を守る番人もいれば …墓を暴く盗賊もいる"

このシーンが描かれたのは、闇遊戯が実は古代エジプトのファラオだと発覚するよりはるか以前のモンスター・ワールド編。本作がカードバトル中心の長編をやり始めるより前のことです。

注目すべきなのは、この時点で「番人」とは闇遊戯のことを指しており、「盗賊」である闇バクラと敵味方で対のように描かれていたことです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇遊戯が「墓を守る番人」だったからこそ『千年アイテムは王墓をあばき財宝を盗みだす罪人を裁くために生みだされた』という設定が最初に描かれたのであり、そのステージである王墓は盗賊を地獄へいざなう死と闇の遊戯なのです。罪人を裁き罰を与える =罰ゲーム」です。(「遊戯王」という称号が「盗賊王」と対になっており、王墓をめぐる戦いがゲームであるとするなら番人の方が負けた場合も罰ゲームは執行されるため、盗賊である闇バクラにも「罰ゲーム!」という決め台詞があるのは正しいといえる)

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それらは古代の王に仕える魔術師達によって「王墓をあばき財宝を盗みだす罪人」を裁くために生みだされたもの…

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『盗賊にとっては地獄へ誘う死と闇の遊戯

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし途中で設定が変更され、闇遊戯は古代エジプトのファラオだということになります。つまり「墓を守る番人」ではなく「墓の主」の方。

そこで、空いてしまった「墓を守る番人」ポジションに、あとから据えられたのが神官マハードです。だからこそ彼は「王墓の警護隊長」として登場し、死と闇の遊戯場である王墓で、盗賊王バクラと対峙しなければならなかった。

 


 マハードをとりまく "いびつ" な設定

そもそもブラック・マジシャンは闇遊戯が最も信頼するエースモンスターという設定に途中からなったのだから、そのルーツとされる神官マハードだって(墓とかよりファラオの身辺警護とか、せめて王宮の警護とか)ファラオの右腕の魔術師のような人物像にしないと、なぜ現代で闇遊戯が最も信頼するモンスターが三体の神ではなくブラック・マジシャンなのかイメージが掴みづらいです。

非常に展開を急いでおり、限られたページ数の中で「ブラック・マジシャン誕生」のエピソードと同時に「千年輪を手に入れる盗賊バクラ(現代において千年リングには闇バクラの人格が宿っていることへの布石)」のエピソードも段取り良く消化したかったという意図が見え隠れします。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも盗賊を王墓で迎え撃つ(番人VS盗賊)というシチュエーションの方が優先されているため、壁抜けの能力を持つ相手を地下墓地に閉じ込めるというとんでもなく不自然なストーリー展開に…。この王墓ごと盗賊バクラを吹き飛ばす勢いの自爆特攻作戦のステージは先王アクナムカノンの墓であるため、先王の遺体は別の場所に移されたと説明されている。)

どうせ殺すならその魔力を弟子のマナに譲り渡すとかして(ブラック・マジシャン・ガールの設定でありましたよね……)千年輪を弟子に託していく展開ならまだ同情の余地もあったものを、突然ひとりで盗賊王バクラに戦いを挑み、壁抜けの能力があると発覚したばかりの相手を王墓に閉じ込めようとし、案の定バクラは王墓から脱走、千年輪が奪われ悪用されたせいで、神官アクナディンが闇堕ちしてしまいました。これは作者側のストーリー展開の都合に他なりません。

盗賊王バクラの扱いも相対的に弱く、本来はそれまで闇遊戯が一方的に裁いてきた悪人たちとは違う  “(裁く側である闇遊戯と同じように)千年アイテムを持った ” 敵であり海馬やモクバなどのキャラクターよりも格上のライバルとして登場してきたはずの闇バクラ = 盗賊王バクラの存在意義も軽くなっています。

 


5.タイトルに込められた意味。「遊戯(の)王」から「遊戯(と)王」へ


前述の通り、初めの頃の本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。

遊戯王というタイトルは、主人公の遊戯があらゆるゲームに精通し、あらゆるゲームで強く、ゲームで悪人を倒していく姿を王者にたとえたもの。ゲームの王、「遊戯(の)王」です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

やがて本作はカードゲームのみを扱うようになり、「遊戯(の)王」というタイトルが微妙に合わなくなってきます。カードゲームは数あるゲーム(遊戯)の中の一つでしかありません。主人公がゲーム全般の達人ではなくあくまで決闘者(デュエリストであり、漫画としてカードゲームだけを専門で扱うならタイトルは決闘王(デュエルおう)の方が相応しいでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも表遊戯と闇遊戯は実は別個のキャラクターで闇遊戯はファラオ(王)だという話しになり、本作の  " タイトルと内容のちぐはぐ感 "  はいよいよ致命的なものに。

遊戯がゲーム全般の王様的プレイヤーだという概念が主な読者層にほとんど忘れられ、もはや王といったらファラオを連想する、なのに本来の「遊戯」である表遊戯が王(ファラオ)なわけではない闇遊戯は王(ファラオ)だが本当は「遊戯」ではないじゃあこのタイトルの「遊戯王」というのはいったい何を表しているのか??

そこで出てきたのが、『遊戯 王』という新たな解釈です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまりこのタイトルの遊戯王」とは、遊戯と、王(ファラオ)、二人の主人公である表遊戯と闇遊戯を表しているのだと。すごい。めちゃくちゃキレイにまとまりました。

このタイトルは、物語を読み進めていくと最後に意味が分かるよう作者によって最初から仕組まれたもの……ではありません。あくまで後付けです。前述の通り、当初の闇遊戯は正義の番人(墓を守る番人)として描かれていたわけで、一番最初の構想段階からファラオ(墓の主)として作られたキャラクターではないことは明白です。(最初にファラオとして登場するためにデザインされたキャラクターはマリク・イシュタールではないかと想像しています。「マリク」はアラビア語で「王」を意味します。)

1999年12月にプレイ・ステーション用ゲーム「封印されし記憶」が発売されているので、遅くとも原作の王国編の終盤あたりかバトル・シティ編の導入部分が描かれた頃には闇遊戯をファラオにする構想が決まっていたでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

本作がカードゲーム中心になったことでどうしようもなくその内容と剥離してしまっていた作品タイトルに「遊戯(と)王」という新たな解釈を吹き込むことで、原作者は見事に最終回をまとめあげました。その手腕とひらめき力には、長年の連載で揉まれ続けた原作者の、プロとしての意地を感じました。

おわり

★前編はこちら★

rootm.hatenablog.com

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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜前編〜【遊戯王 漫画 原作 DM 考察 感想】

 

 

 1.成長の意味。人格「統合」から、「分離と自立」の物語へ

 

悪を裁く正義の番人「もう一人の遊戯」

遊戯王の原作マンガが連載を開始した当初、本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。
言うなればカイジ『必殺仕事人』を足してオカルト要素を融合させたヒーローマンガです。

主人公の武藤遊戯はゲームが好きな大人しい少年ですが、仲間や家族に危害が及ぶと人格が豹変します。そして悪人を相手に危険なゲームをもちかけてボコボコに負かし、敗者に恐ろしい「罰ゲーム」を科して廃人にしてしまう。いわば勧善懲悪のダークヒーローだったのです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ちょっとした賭け事から本格ボードゲームまで、どんなゲームも遊戯に敵う者はいない。彼はゲームの王様だ!
遊戯王というタイトルは元々このような意味合いからきています。

連載当初の本作は「普段は気弱な主人公が悪人の前で豹変して強くなる」ことにカタルシスを覚えさせる構成になっていました。これがあるから普段のやさしい遊戯がマンガとして映え、普段の遊戯が気弱だからこそ豹変した時のギャップが際立つ。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまり、表の遊戯も、もう一人の遊戯(闇遊戯)も、どちらも正真正銘、武藤遊戯でなければこの話しは成り立たない。
月野うさぎセーラームーン(プリンセス・セレニティ)が実は全く関係ない別人です、では「美少女戦士セーラームーン」(©︎武内直子)という作品は意味がないのです。

ここで重要なのは、当初、主人公の遊戯は「二つの心を持つ」一人の少年という設定だったことです。

これは厳密な意味での二重人格とは異なります。「1つの体に2人分の人格が存在している」のではなく、「あの人って性格にうらオモテあるよね」みたいな意味での俗にいう二重人格、本人ですら知らない自分の「もう一つの心」がものすごく強調され擬人化されて内に秘められているような状態。一般的に多重人格者はそれぞれの人格が別人を自称しますが、表遊戯も闇遊戯も自分を「武藤遊戯」と思っており、その様に振る舞います。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇遊戯はごく稀なケースを除いて、表遊戯(自分)を守るために現れるわけではありません。この時点での闇遊戯は表遊戯の内なる強さそのものであり、仲間や家族に危害が及ぶと「よくもオレの(ボクの)大切な人を傷つけたな!」と言って出てくるのです。これは主人公が悪人に報復することの正当性を担保し、ダークヒーローものとして作品を成立させるためにも重要なことです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社


「もう一つの心」を受け入れる

最初のころ、周囲の人々は遊戯の「もう一つの心」のことを知らないので「なんか雰囲気が変わったな」などと思いながら接するのですが、表遊戯はだんだんと自分の中の「もう一つの心」の存在に気がつくにつれ『こんなボクを知られたら皆んな離れていってしまうんじゃないか……』と不安を覚えます。そしてDETH-T編の終盤でその不安はピークに。

ここで注目すべきは、表の遊戯はこれを自分自身の問題として苦悩していたことです。自分が何か悪霊に取り憑かれているとか、千年パズルに宿った悪の人格に体を乗っ取られているとかではなく、あくまで自分自身の心の問題としてです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

これは「普段は見せない自分の一面を知っても、他人は自分を受け入れてくれるのか」という普遍的なテーマに通じます。普段は閉ざされたその人の一面を「もう一つの心」として擬人化することで、少年マンガらしい熱く爽やかな表現に成功しています。

DETH-T編を乗り越えて表の遊戯は自分自身と向き合い、「もう一人のボク」を受け入れます。この時はじめて仲間たちは表の遊戯がもう一人の遊戯へと変貌する瞬間を目撃し、それでも「遊戯は遊戯」として主人公を応援するのです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社


作品の結末を分けた、大きな方向転換

千年パズルの闇の力について、ストーリー序盤では深くは触れられず、闇遊戯は「千年パズルの力によって武藤遊戯の中から目覚めた、もう一人の遊戯」として描かれていました。

千年パズルについて踏み込んだ内容が初めて描かれたのは、エジプト発掘展を舞台としたVSシャーディー戦です。ここではぼんやりとした象徴的な意味合いながら、千年パズルの真の力と物語の結末の一端が示唆されています。

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この少年には表と裏の人格が存在しているが少年はそれに気づいてはいない…

表と裏がひとつになった時こそ「千年パズル」の真の力が目覚める時なのだ!

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この表と裏がひとつになるという表現を、「表遊戯と闇遊戯が友情を育んで "相棒" になる」とか抽象的に解釈することはいくらでもできます。しかしそれは既に描かれた結末を知っているからこそ出てくる逆算的な発想です。主人公の成長物語としての本作は、当初は異なる方向性が提示されていました。

つまり、分裂してしまった表の遊戯ともう一人の遊戯(闇遊戯)が一つになり、表でも裏でもないただの遊戯になることこそが物語のゴールだった可能性が非常に高いです。 (最終的には映画DSODみたいな見た目と雰囲気になったのか…?)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上の引用画像は王国編の序盤あたり、80話目でのワンシーンです。もしも最初から「表遊戯と闇遊戯がそれぞれ別人として自立し、別れる」ことを想定して描かれていたのなら、このような描写は絶対に出てこないはずです。だって二人の遊戯が自立しなければならないなら、それ全部が遊戯で、そのままでいいわけがないですよね。この時点では杏子はまだ闇遊戯の正体を知らないから…と解釈すれば確かにつじつまは合いますが、それはあくまで  " 後付け "  的な解釈です。このシーンは杏子が遊戯に語りかけると同時に読者への提示でもあるわけですから、少なくとも「それ全部が遊戯」という台詞だけは変更されていなければマンガのストーリーとしておかしい。

つまり、本作は少なくとも王国編の序盤くらいまでの時点では、現在とは別な結末が想定されていたということ。人格の「統合」です。

これは闇遊戯がもともと表遊戯の心の中から出てきた存在で、千年パズルの力はあくまできっかけに過ぎない、どちらも正真正銘「武藤遊戯であることが前提の話しです。

自分で自分がよく分からない、恐ろしい敵に立ち向かうためには「強い自分」が必要、みんなと仲良くいるには「やさしい自分」のままでいい。そういったバラバラのパズルのピースのような状態にある未熟な心と向き合い、組み上げて、「自分」という1つの完成形に向かうための物語。まだ誰も完成を見たことがないパズルの真の姿こそが本当の「武藤遊戯」です。

しかしご存知の通り、ストーリーが進んでいく途中で闇遊戯の設定は大幅に変更され、彼は武藤遊戯とはもともと別の存在である、古代エジプトのファラオの魂」であることが明らかになります。下の引用画像はまさに、杏子の心情を借りてこれまでの設定と今後の変更点を読者に説明しているシーンと言えるでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そこで提示された、また別の方向性。それが本作の最終話に描かれた二人の遊戯の結末、「他者との分離」そして「自立」です。

自分と他人の境界があいまいで自他を切り離せない、他人の心が分からなくて不安になる、自分にはない他人の良さを羨む、他人と離れたくない、そういう未熟な状態から、「自分は自分」「他人がどんな道を選ぼうと、それは他人の選択」という、自立した状態になることがゴール。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

これはあくまで、闇遊戯はもともと外からやってきて武藤遊戯の心の中に間借りしている別個な存在だというのが前提です。

「統合」と「自立」。これらは途中でキャラクターの設定が変更されストーリーの方向性が変わったものであり、どちらの状態が上とか下とか、良いとか悪いの話しではありません。
主人公がアイデンティティを確立する成長物語であることに変わりはないのです。

(余談:本作がカードゲーム中心の長編をやり始めると必然的に、もともと敵とのゲームパート担当だった闇遊戯が出ずっぱりになります。何話もかけて1つのデュエルを描くので漫画の構成上、仕方ないのですが、一話完結のスタイルが崩れて表遊戯の出番が激減したことについて原作者自身は「表遊戯が闇遊戯の影に隠れている」と捉えていたようです(構成が悪いのであって、これを問題視するならブラック・マジシャンとかも弟子の影にがっつり隠れていることになるのですが)。表遊戯はもっと前に出なきゃいかん!と原作者が考えたことから、表遊戯が闇遊戯を超える→自立するという結末に至ったことが、その後の本編の流れや文庫版のあとがきで書かれた原作者のコメントなどから推察されます。)

 

2.ヒロイン杏子との恋の行方

もともと、表遊戯は幼馴染みの杏子のことが好きです。
一方、杏子が恋しているのは闇遊戯です。バーガーワールドで凶悪犯の人質にされてしまった杏子は、自分を助けてくれた名前も姿も分からない人に恋をします。それが闇遊戯、千年パズルの力によって遊戯の心の中から目覚めた「もう一人の遊戯」でした。

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 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

最初の時点では杏子が闇遊戯に恋していること自体べつに問題なかったわけです。だって表遊戯も闇遊戯もどっちも「遊戯」だから。どうも最近杏子には好きな人ができたらしい…遊戯は当然ショックですよね。しかし、杏子が恋しているのは実は遊戯なのです。この絶妙なすれ違いの両片思いが良かった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この杏子の恋心の揺れ動きは、特に異性として意識したこともなかった幼馴染みの意外な一面を知ったことで一気に恋に落ちるという、ラブコメの鉄板とも捉えることができます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

杏子の想いが闇遊戯の方に偏っていること自体が、ストーリーの伏線のようになっていました。表と裏が一つになる過程で、杏子は遊戯の一面のみを見るのではなくその『二面性』を含めて『遊戯は遊戯』としてあらためて好きになり、晴れて結ばれる。当初、原作者はそんなような展開を意識していたのではないでしょうか。

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『いいの!遊戯は遊戯じゃない!それは最初は…でも……表とか…もう一人とかなんて関係ないんだよ!それ全部が遊戯なんじゃない!』 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『決闘者って………みんな二面性を持ってるのかな………』(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし、実は表遊戯と闇遊戯はまったくの別人で、魂から別だという話しになってからは事情が変わってきます。表遊戯と杏子と闇遊戯は恋の三角ということになってしまい、大分めんどくさいことになりました。

「闘いの儀」が行われる前夜に杏子はクルーズ船の遊戯の部屋を訪れましたが、出迎えたのは表遊戯だった。さすがに「最後にもう一人の遊戯と話しがしたいから変わって(今私が話したいのはあなたじゃない)」などとは言えず、「本田のお腹の薬を貰いにきた」と嘘までついて、杏子はそのまま部屋を出ます。とても健気です。

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 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

アニメ版では少し異なるのですが、杏子は「闘いの儀」の最中もずっと闇遊戯(アテム)を気にかけています。(原作者的にバランスをとりたかったのか、城之内はどちらかというと表遊戯の方を応援している)

このこじれた関係を最後まで上手く方向修正することができなかった結果、杏子は闇遊戯(アテム)に恋心を打ち明けることさえできず、原作本編は終了してしまいました。

★後編に続く★

rootm.hatenablog.com

 

 

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M&Wを象徴するキャラクター、ブラック・マジシャンの考察と紹介【遊戯王 アニメ 漫画 原作 DM 感想】

 

 あまりにも有名かつ古株キャラすぎて今更感ありますが、ちょっと突っ込んだところまで書いてみました。 OCGではなく、原作マンガやアニメにおけるキャラクターの考察と紹介です。

 

1.概要。「ブラックマジシャンに似ている、他作品のキャラを思い浮かべてみる」 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 いわずと知れた遊戯王主人公・武藤遊戯(とくに闇遊戯)のエースモンスター

 ライバルの海馬瀬人は超王道の青眼の白龍ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン、以下ブルーアイズ)という誰がどう見てもカッコ良くて強そうなモンスターを使う一方で、主人公の遊戯が使うのはRPGの悪役の魔法使いのような見た目のブラック・マジシャン。

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
  戦うモンスターのモチーフとしてどちらがよりストライクゾーンが広いかなど比べるまでもありません。ふつうに考えたら真っ白なドラゴンの方がカッコ良いし美しいに決まってます。 そこであえて、ブラック・マジシャンの方を主人公のエースとして立てたところがカッコ良いってことかなと思います。
 魔法や罠カードとのコンボで自身より攻撃力の高いモンスターとも互角に戦えるブラック・マジシャンだからこそ、主人公のエースに相応しいのです。

 出てきた瞬間一発で魔法を使うキャラだと分かるトンガリ帽子に杖というオーソドックスな「魔法使い」スタイルながら、ブラック・マジシャンは奇術師や手品師のトリッキーなイメージも併せ持ちます。
 初期を代表するコンボ技である「千本ナイフ」「死のマジック・ボックス」「マジカルシルクハット」などは明らかに手品やマジックショーを連想させるカード。
 
 ブラック・マジシャンの「マジシャン」は、魔法使いと奇術師のダブルミーニングです。

 原作者の卓越したネーミング、デザインセンスもあいまって、ブラック・マジシャンに似ている遊戯王シリーズ以外のキャラを思い浮かべろと言われてもすぐにパッとは思いつかないほど、このキャラの唯一性と独自性は未だに群を抜いています。(当ブログが知らないだけでふつうに似てるキャラいたらすいません)
 
 

2.戦闘スタイル。「魔法使いが奇術を繰り出して戦うという倒錯」

 ブラック・マジシャンは英語圏では名前が異なり DARK MAGICIAN となりますが、英語で奇術師をMagician と呼ぶのは、タネが分からないそのトリックがあたかも魔法のように見えることからだそうです。でもブラック・マジシャンは魔法使い。トリックとかではなくマジでなんのタネも仕掛けもありません、そういう魔法です。 

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 この不敵で妖しげな戦闘スタイルは、相手のふいをつき戦況を一気にひっくり返す闇遊戯のプレイスタイルそのものです。
 ダーク・ウィザードとかブラック・メイジとせずにあえて『マジシャン』という言葉を選んで魔法使いと奇術師をかけたネーミングと必殺技の数々に、原作者の非凡なセンスを感じます。
 
 

3.外観。「その帽子どうなってんの?」

 ブラック・マジシャンのデザインてワケわからなくないですか?よく見るとへんな格好してますよね。でもなんか無性にカッコいい

 これはデザインそのものが洗練されているからに他なりません。ある種のダサさ、抜け感があり、だから時代によって変わる流行にさほど左右されず、初登場から20年以上経った今でもそのデザインは色褪せません。魔法使いのフードを意匠化したようなその頭から胸元まで全てが一体化した意味不明にカッコ良いデザインをよく考えついたなと思います。

 このデザインは真正面よりも真横やななめ側から見た時に、独特の美しいシルエットが際立ちます。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 これまで、ブラック・マジシャンの外観はその名に反して青や紫で表現されてきました。原作者によると、これは絵全体が暗くなってしまうのを避けるためだそう。2016年に公開された劇場版「THE DARKSIDE OF DIMENSIONS」 では原作者の元々のイメージに近いというカラーリングで再登場したブラック・マジシャンを見ることができます。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

 4.ブラック・マジシャンの活躍

 アニメしか見たことのない方は意外に思われるかもしれませんが、初めの頃のブラック・マジシャンは端役のいちモンスターでしかなく、遊戯の切り札はそろったら即勝利が確定する「封印されしエクゾディア」でした。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 ブラック・マジシャンが本格的に活躍し始めたのは王国編から。

 明確にエースモンスターとして扱われだしたのは王国編よりさらに後のバトル・シティ編導入部分からになります。

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

  DEATH-T編のラストで登場したエクゾディアのカードは、一つ一つの力は弱くとも、バラバラのピースが一つに合わさった時それは何よりも強い力になる=「友との結束の力」というテーマが非常に分かりやすかったのですが、カードゲームが話しの中心になってからの本作では絆や友情といったテーマを視覚的に分かりやすく表現することが難しくなりました。だって読者の視覚に最も強く訴えるのはカッコいいorかわいいモンスター同士の殴り合いだしどんな理屈をくっつけようが本来、カードゲームの強さとはカード自体の性能とプレイヤーの頭脳。マジック&ウィザーズ(デュエルモンスターズ)は基本的に1対1の個人戦だから。

 
 そこで出てきたのが、プレイヤーとカード(のモンスター)との間にも絆があるという論法。バトル・シティ編のVS奇術師パンドラ戦、ブラック・マジシャン対決です。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
 ブラック・マジシャンの攻撃力は2500しかなく、生贄を2体も要求し、特殊能力(モンスター効果)も耐性もない。このカード自体の単体での性能はそれほど高くありません。奇術師パンドラはイカサマも含めてこのブラック・マジシャンを完璧にデッキのメインに据えており、闇遊戯の魔法使い&戦士モンスター混合デッキよりも遥かに洗練された専用構築と優秀なブラック・マジシャン専用サポートカードを駆使して闇遊戯を苦しめます。しかし最後はしもべの信頼を裏切ったことで敗北しました。
 このブラック・マジシャンとの絆を武器に闇遊戯がバトル・シティを勝ち抜いていくことこそが、決闘者の強さとは単なるカードの性能や冷酷さではなく絆の力、” 自分とカードを信頼し合えるか ” であることの何よりの証明になったのです。(過去形) 

 

 

5.エースの看板

 もともと原作でのブラック・マジシャンは「エース」や「切り札」というより使い勝手の良い主力モンスターとしてザコを掃討する役割が多く、重要な局面では意外性のあるクリボーや、ブラック・マジシャンの上位派生モンスターであるマジシャン・オブ・ブラックカオス、超魔導剣士ブラック・パラディン、そして神のカードであるオシリスの天空竜などが活躍してきました。ブラック・マジシャン単体でフィニッシャーとなったメイン回ともなると原作では1度もありません。(追記:ブラックカオスやパラディンはブラマジが魔法カードとのコンボでフィニッシュを飾ったメイン回に実質カウントしていいと思います。)

 とはいえ、本格的にブラック・マジシャンをエースとして扱いだしたバトル・シティ編やファラオの記憶編において、上記は的を得た回答にはなり得ないでしょう。彼は主人公のエースモンスターという看板を原作者によって背負わされましたが、実際の扱いとして、製作側がより重要視してきたのは彼以外の人気モンスターたちであることは瞭然です。

 結論を言うと、全ての遊戯王作品を象徴する最強モンスターはブルーアイズ圧倒的な人気知名度を誇り、登場枠や作画の力の入れ所、グッズ化等で最優先されるのはブラック・マジシャン・ガール。そして闇遊戯デッキの最後の切り札ともいえる最強のしもべはオシリスの天空竜なのです。

 

遊戯VS海馬…永遠に勝てないライバル?  

 ブラック・マジシャンがブルーアイズのライバルと言われるのはマスターである闇遊戯と海馬がライバル関係にあるからに他ならず、モンスター同士の力関係だけを言うのであれば「ライバル」という響きは形骸化しています。

 攻撃力3000のブルーアイズに対し、ブラック・マジシャンは攻撃力2500しかありません。

基本的に、エースモンスター同士の正面衝突になればブラック・マジシャンに勝ち目はありません。よしんば魔法や罠を駆使してブルーアイズを倒せたとしても、返しのターンで海馬があっさり2体目のブルーアイズを召喚、遊戯の手札やフィールドには迎え撃つ魔法も罠もない。そうなった時、ブラック・マジシャンは自らの攻撃力2500でライフへのダメージを相殺し、マスターの盾となって散るしかないのです。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 ブラック・マジシャンは、"ただ攻撃力の高いモンスターを出せばいいというものではない" というM&Wの醍醐味てきな部分を象徴するモンスターです。そこには、攻撃力で劣るモンスターが魔法・ 罠とのコンボを駆使して自身より攻撃力の高いモンスターを倒していくという下克上のカタルシスがあります。しかし同時に、高攻撃力モンスターに上から殴られなすすべなくやられてしまう悲哀をも背負っています。

 そして海馬は最強モンスターであるブルーアイズを完璧に使いこなし実力は闇遊戯と拮抗していますが、公正なデュエルで闇遊戯に勝利したことは一度もありません。なぜなら、海馬は己の力しか信じず最強に固執し、他者との信頼や情や自身の命すらも軽視するキャラだったから。奇術師パンドラの敗因と根っこの構造としては同じです。大局的に見ると遊戯は『友の力』『自分とカードを信頼し合えるか』で海馬のパワーデッキを下し、その戦線を支えるのがブラック・マジシャンを筆頭とする主力モンスターたちなのです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 この絶妙なパワーバランスは、本編において闇遊戯と海馬を対等なライバルたらしめていた大きな要因の一つでしょう。海馬のようなキャラは一歩間違うと「主人公に毎回つっかかってくるが永遠に勝てない自称ライバル」のような冴えない扱いになってしまいますが、実際の海馬にそうした印象を持っている読者はあまりいないと思います。これはひとえにブルーアイズという絶対的なエースモンスターの使い手であること、そのエース同士の直接対決であれば海馬は必ず闇遊戯に勝利していることが読者の印象に強く残っているためです。(※ドラゴン族メタのブラック・パラディンを除く)

 上記のスタンスはファラオの記憶編においても頑なに貫かれています。神官セトと神官マハードの露骨な力関係や、ファラオと神官セトとのあまりに呆気ない決闘シーンの描かれ方においてすらそれは顕著です。

 

魔法使いの弟子「ブラック・マジシャン・ガール」

  デュエルに参加できないヒロインの代わりに、バトル・シティ編から満を持して投入された新しいタイプのヒロイン、ブラック・マジシャン・ガールは、その他に類をみないほど完璧な愛くるしいデザインで読者を虜にし、瞬く間に大人気キャラの一角となりました。

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 時期を同じくしてデュエルのルールが変更され、レベル7以上のモンスターは召喚しにくくなっていきます(ガールはレベル6)。そして「デッキの切り札となる高レベルモンスター」としては神のカードであるオシリスの天空竜が台頭します。
 これらが重なった結果、ブラック・マジシャンは出番が激減。皮肉にも、正式にエースとして扱われ始めたバトル・シティ編より以前の方が明らかに出番が多かったという逆転現象が起きてしまいました。 

 それまでブラック・マジシャンが担ってきた、ザコを掃討する役割、中間の見せ場は全てブラック・マジシャン・ガールに移譲されていきます。普通であればここでエースが交代する流れですが、しかしそこは伝統的な少年マンガ。いくら読者人気が圧倒的だとはいえ「かわいい女の子増やせ」ということで投入された美少女萌えキャラであるブラック・マジシャン・ガールが主人公のエースってさすがに格好がつかないし、ライバルのブルーアイズとは張り合えません(かわいさでは圧勝だけど)。オシリスの天空竜は「神」という特別な属性のため、そう毎回呼び出すこともできません。そもそも童実野美術館の石板レリーフ黒き魔術師(どう見てもブラック・マジシャン)を描いてしまった以上、その伏線を全く無視することもできません。ではどうするのか? 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 そこで編集と原作者は、ブラック・マジシャンを出す時には人気キャラのブラック・マジシャン・ガールも必ずセットで登場させ師弟キャラを確立させることで、この問題をとてもスマートに解決しました。「単体では力の弱いモンスターを連携させて強敵を倒す」という決闘の流れはこれまでの闇遊戯のプレイスタイルと相性抜群で、作品テーマとの兼ね合いも非常に良かったと思います。 

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 キャラクター商売としては当然のことながら、この人気至上主義アニメシリーズにおいても同様です。師匠と弟子、この2人のキャラクター間で作画のクオリティそのものや動きの付け方の凝りよう、アニメオリジナル回における登場頻度の差があまりにも歴然としているため、もはや可愛い弟子を描くことの方がメイン。 ガールのやられシーンは異常にこだわって描くが師匠の召喚演出は大体ふつうかテキトーで、作画は重要な回ですら崩れている。

 こうした扱いの差は視聴者側にも当然伝わりますし、その後の人気にも大きく影響します。

 

切り札にして最強のしもべ

 闇遊戯はブラック・マジシャンについて、よく「俺の切り札にして最強のしもべ」という言い方をします。しかし原作やアニメ本編での実際の扱いとして、闇遊戯のデッキにおける最強の切り札は神のカードであるオシリスの天空竜です。闘いの儀で表遊戯を迎え撃つため最後に召喚されたモンスターもオシリスの天空竜でした(その決闘でブラック・マジシャンが何をしたかというと、表遊戯のマシュマロン1体を撃破しただけ。これはアニメ版でかなり補足されました)。

 ストーリー上の意味合いを考えるなら、サイレント・マジシャンと相討ちも取れずあっけなく散ったブラック・マジシャンが最後にまた出てくる展開もあり得るし、死者(神官マハード)の魂が宿っていると思われるブラック・マジシャンを墓地から蘇生しようとしてそれを表遊戯に阻まれる方が「死者は蘇ってはならない」という示唆に富んでいると思います。(二人とも本来冥界に還るべき人々なので、マハードを絡めてもアテム本人へのメッセージが薄れることはないと思います)

 しかしあの場で優先されたのは神のカードを出す=オシリスの天空竜を描く、ということ。

 もちろん、カードゲームとしての面白さ、プレイングの問題(ただブラック・マジシャンを蘇生しただけではサイレント・マジシャンを迎え撃てない)、読者や視聴者をあっと言わせるスリリングなゲーム展開を優先するとしたらそこはブラック・マジシャンではなくオシリスの天空竜で大正解だと思います。最後の切り札が出てきた! 感の演出としては、ブラック・マジシャンが再登場してくるだけでは全くインパクトに欠け、決闘の展開が締まらないのです。

 しかし遊戯王って元々はカードゲームを描くための漫画ではなく、ゲームを通してキャラクターの背景や心情を描く漫画、デュエルの戦略等はあくまでストーリーを描写するための小道具だったはずではないですか?(だからこそあの言ったもん勝ちみたいなグダグダの素人ルールが許されていた)

 オシリスの天空竜が闘いの儀などでラストを飾ること自体なんらおかしくないと思うのですが、『自分とカードを信頼し合う』というようなフレーズでエースの看板を背負わせてきたブラック・マジシャンの、肝心の決闘シーンでの活躍がそこまでパッとしたものではない、闇遊戯とカードたちとの絆や信頼を象徴する役割を果たせてもいない(そして結局は蹴散らされて終わる。はっきり言って、表遊戯のサイレント・マジシャンを引き立たせるお膳立て役で終わっている)のに、ラストシーンで大型のいかにも強そうな  “ 映える ”  モンスターを登場させることで強引に展開を締めるのは、マンガとして筋の通った描き方ではないと思います。(原作でブラック・マジシャンが象徴的な役割をきちんと果たしていたのはvs奇術師パンドラ戦と、ブラック・パラディンの回くらい…?)

 次作アニメシリーズのGX最終回、十代とのデュエルでブラック・マジシャンはE・HEROネオスと相討ちします。このデュエルでは明確に、ブラック・マジシャンとネオスは各々のデッキの象徴であると語られました。そして十代はそのネオスで再び挑んでいくのに対し、闇遊戯は「黒魔族復活の棺」というブラック・マジシャンのサポートカードとのコンボでオシリスの天空竜を召喚しました。

 海馬は神を生贄にしてまで自身のエースモンスターをあえて召喚するという意地とプライドを見せた一方で、カードと信頼し合うとか友の力とかを決闘に持ち出す闇遊戯は魂のエースカードを召喚するかに思わせたタイミングであえて神を召喚するという、ここでも奇妙な逆転現象が起きてしまいました。

 

人気至上主義

 ストーリーの進行に絡んで、エースモンスター(フェイバリットカード)が二枚看板になっていく流れはよくあります。同じ遊戯王シリーズの十代ならネオスとユベル、万丈目ならアームド・ドラゴンとおジャマなどで、これらはストーリー上必然性のあるものとして筋が通っているため違和感を持つファンはほぼいないと思います。

 商業的には主人公は一つのモンスターに固執せず色々なモンスターを使った方がよく、主人公の看板モンスターが1体だけではとても間がもちません。だからこそ闇遊戯はカオスソルジャー、バスター・ブレイダー、オシリスの天空竜、そして華を添えるブラック・マジシャン・ガールなど様々なエース級モンスターを駆使して戦ってきました。それはマンガやアニメが娯楽作品であり人気商売である以上、必要なことです。

 しかし結果として、ブラック・マジシャンというエースモンスターは良くも悪くも(他のモンスターの方が非常に人気が出てしまったのでなおさら)エースって設定だから配慮するけど他の人気キャラが優先だよというような扱いしか受けてきませんでした。ただでさえバトル・シティ編からエースを名乗るようになった(闇遊戯が  “ ブラック・マジシャン使い ”  という設定になったのは途中から)という背景があるのに、出番は全体から見ればむしろ少なくなり、公式からのプッシュがブラック・マジシャン・ガールなどの他のキャラクターに偏っていたのは致命的です。だからラストは切り札のオシリスでないと締まらないし、人気のためにはガールをもっと目立たせろというような話しにいつもなる。(それでも原作の要所で召喚されてきましたし、アニメや劇場版では大分補足やリスペクトしてもらってますが)

 ブラック・マジシャンはエースを名乗ってはいるけど、実質的な中身が100%完全に伴っているかと聞かれたら、私は完全に自信を持ってもちろん!と主張することはできないです。

 原作者含め、製作側がそこまで真剣にこのキャラクターを立てていないというか、主にはアリバイ的な台詞での説明で済まされる傾向にあります。ようやく描かれた神官セトとファラオの決闘で白き龍は神と同等かそれ以上の扱いを受ける一方、黒き魔術師はあっけなく蹴散らされ単なる壁モンスターのような扱いで、最後は白き龍(=ブルーアイズ)のいわば擬人化キャラクターであるキサラとかがメインキャラの仕事をして終わり。アニメオリジナル回では闇遊戯のデッキマスターをあえてクリボーにしてみたり、遊戯たちにコンタクトを取ってくる橋渡し役がなぜかブラック・マジシャン・ガールやマナだったりと……。そんなだったらもうブラック・マジシャンにエースとかの看板をむりに付けずに「闇遊戯が特に主力で使うモンスターたちの中の一体で、一番の古株(どれをエースとして挙げるかは好み)」くらいのままにしておいた方がよかったような…?(異論はめっちゃ認めます…)

 「闇遊戯が最も信頼するモンスター」という設定も、そういう設定の説明だけ、あるいはブラック・マジシャンは忠誠心の強いキャラクターであるという一方向の描写で終わっています。そのルーツとしてファラオの記憶編では「神官マハード」というキャラクターも登場しましたが、闇遊戯(ファラオ)から信頼を返すとか絆を結ぶとかまで描写が到達しておらず、ただエピソードを消化することとモンスター同士の殴り合いに終始している印象でした。(ファンは正直なので、当時この神官マハードというキャラクターは散々な言われようでした)

 しかし、おそらく原作者にはその様に描かれていた心当たりなどなく、呑気にもキサラと神官セトのくだりが心残りだとか言っている。

 

 若干キャラクターへのディスみたいになってしまい心苦しいのですが、これはキャラクターや作品そのものへの叩きなどでは決してなく、手っ取り早く客を釣れる人気キャラや作者のお気に入りキャラを前に前に出して読者や視聴者が喜んでいればそれでいい、マンガやアニメの話しとして筋を通すこともしない、現金な人気至上主義、無神経な制作態度に対する批判であることをご理解いただきたいのです……。

 

 

6.M&Wを象徴するモンスター

 遊戯王のカードゲームを指す名称としては、アニメやOCGで広く普及した「デュエルモンスターズ」が一般的と思います。しかし、原作のマンガでは別な名称が使われ続けていました。その名も「M&W(マジック・アンド・ウィザーズ)」。

 アニメやOCGしか馴染みのない方が最初にこの名称を聞いたら、若干 え? と感じると思います。なんで「魔法使い」限定みたいな名前?(ぶっちゃけ、マジック:ザ・ギャザリングのパクr…オマージュだからなんですが)その理由は、原作にカードゲームが始めて登場した時のルール説明の中にあります。

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(©高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

“プレイヤーはお互い魔法使いっていう設定” 

 

 つまり、「M&W(マジック&ウィザーズ)」のウィザーズとはモンスターではなく、対戦している二人のプレイヤーを表しているのです。「デュエルモンスターズ」との大きな違いはそこだと思います。

 この最初期のM&Wにはモンスター効果、つまりモンスター自身が持つ特殊能力の概念がなく、全てのモンスターが効果を持たない「通常モンスター」でした。魔法使いである2人のプレイヤー(ウィザーズ)は魔法の力(マジック)によってこれらの通常モンスターを召喚し、手持ちの魔法カードで通常モンスターをサポートしながら戦うのです。

 もちろんプレイヤーが魔法使いであるといった設定は今では自然消滅しているのですが、この「通常モンスターを魔法(と罠)カードでサポートしながら戦う」という、現在のアニメシリーズやOCGからすれば化石か古代遺産のような戦術を未だに受け継いでいる有名なデッキテーマがあります。

 

はい、「ブラック・マジシャン」デッキです。

 

 デッキに名を冠するモンスターが通常モンスターであるという点はブルーアイズやレッドアイズも同じです。しかし、その通常モンスター自身が(強力なエクストラモンスターを召喚するための素材やコスト等としてではなく)あくまで攻撃の主体となっており、その主体である通常モンスターを魔法や罠で直接サポートすることが主な勝ち筋の一つとなっているデッキで有名なのって、今現在で生き残っているのはブラック・マジシャンデッキくらいだと思います。(あとは融合メインならネオスとかおジャマ? 他にもあったらすいません!)

 最近のOCGでは専用の魔法カード「師弟の絆」が新たに登場し、ブラック・マジシャンとブラック・マジシャン・ガールが自分フィールドにいる場合に相手フィールドのカードを全て破壊する「黒・爆・裂・破・魔・導/ブラック・バーニング・マジック」等の強力な魔法カードを打ちやすくなりました。

 魔法カードと魔法使い族モンスター達とのコンボで相手を絡め取る大胆な戦術は、M&W(マジック&ウィザーズ)というゲーム名の本来の意味が失われた現在において、奇しくもそのゲーム名を象徴しているかのようです。

 

 

7.まとめ

 遊戯王がカードゲーム中心のマンガとして舵を切ったのは、読者人気を何よりも重視するジャンプ編集部の方針でもあったと思います

しかし、そのカードゲームが中心になる以前から作品の根底を貫いている「結束の力」というテーマと、決闘者が一枚一枚選び抜いて構築した自分のデッキ・自分のカード達を信じて戦い抜く姿が見事にシンクロしていく様は、まるでバラバラだったパズルのピースが噛み合っていくようでした。

 そして、ブルーアイズでもなく、レッドアイズでもなく、単騎では弱いが魔法罠カードやブラック・マジシャン・ガール等の派生モンスターとのコンボ = 結束の力で自身より攻撃力の高いモンスターに立ち向かう「ブラック・マジシャン」をあえて主人公のエースに立てたことそのものが、この作品全体のテーマを象徴しているのでした。

 

おわり

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遊戯王 高橋和希インスタ炎上騒動で思ったこと。独裁政権に未来は暗黒次元!←これマハードに言わせる?

 

若者の選挙への関心を高めることに一役買ったとか、作者個人の政治思想をキャラクターに代弁させることの是非とか、「独裁政権」「売国政権」みたいな言葉選びの賛否とか、なんでアートボックス用の表紙流用したとかいろいろあると思います。
 
ただ、私がまず思ったこと。
 
古代エジプトの独裁者であったファラオに忠誠を誓っていた神官マハード=ブラック・マジシャンに独裁政権を批判させるって、ブラックジョークですか……?
 
もはや、捨て身の風刺ですよね。
まあ捨て身やらされているのはキャラクターですが……。
 
もちろん高橋和希先生なりに考えがあっての表現だと思います。ただ、ご自身の主張をキャラクターを通して表現される前に、キャラクター自身のことを少しでも考えましたか?ということです。 
 
繰り返しになるんですけど、ブラック・マジシャンて、古代エジプトの独裁者であるファラオに絶対の忠誠を誓っていた「神官マハード」というキャラクターが元なんですよ。
 
そのブラック・マジシャン(神官マハード)に「独裁政権に未来は暗黒次元!」とか言わせちゃうんですか?ちゃんとキャラクターの設定とか覚えてますか?ていうか神官マハードの存在覚えてますか?考えて表現しましたか?マンガでの設定と現実の世界は一切関係ない別次元だから大丈夫……ですか?
 
あのイラストは、闇遊戯(ファラオ=独裁者)が「投票に行こう!」と言っている後ろでマハードが独裁者を批判している、見方によってはそういう絵面なんですよ。それを考えた上で投稿しましたか?ということなんです。
 
キャラクターは創作上の存在であり、動かすのは作者です。しかし、キャラクターは物語の中で生きている、という想定のもとで、物語の中での生き様を読者に見せることによって、間接的に作者の思想を体現する存在です。物語の中でのセリフは、たとえ作者が考えて言わせたセリフだとしても、キャラクター自身の意志が表現されたものとして、読者は受け取っていると思います。
 
しかし、例のイラストはどうでしょうか? 「独裁政権に未来は暗黒次元!」 ってブラック・マジシャン自身のセリフなんですか?違いますよね。これは作者の言いたいことをただ直接、ブラック・マジシャンのセリフのフキダシに当て込んだだけであって、キャラクター自身のことを考えた表現ではないですよね。ブラック・マジシャン・ガールのセリフだって同じです。キャラクターの性質に合いもしないセリフを強引に言わせて、そのイラストをダシに使ってるだけ。風刺ですらありません。
 
そこの部分に違和感を覚えたファンが多かったからこそ、今回の件はここまで炎上してしまったのではないでしょうか。キャラクターに対する、高橋和希先生のそうした無神経さがファンを落胆させてしまったことが、一因としてあるのではないでしょうか。
 
というか私がその無神経さに落胆しました。他の怒っている or 喜んでいる方々がどんな思いかは私には分かりません。主語を大きく言ってごめんなさい。
 
作者本人が描いたキャラクターの言動は、いちファンが二次創作等でキャラクターを勝手に借りてきて極めて個人的で支離滅裂な妄想を描いて遊んでいるのとはワケが違います。不快になる人もいるんだからやめてとかそういう話しではなく、もっとご自身の生み出したキャラクターを大事に、よく考えて扱ってあげてほしいんです。
 
このブログ記事は、高橋和希先生が政治的な思想を発信されたこと自体への批判では決してありません。政治的なメッセージにキャラクターを使わないでほしいとも主張しません。
 
先生ご自身の、キャラクターに対する扱いが、あまりに無邪気かつ無神経すぎることへの批判です。
 
 
(もし例のイラストが、世襲の独裁者であるアテムの父親の代の負の遺産がもとでマハードもアテムも命を落として王朝が崩壊したことと、自民党一党独裁による日本の未来とをかけた高度なブラックユーモアで、ブラック・マジシャンの「独裁政権に未来は暗黒次元!」は自らの過去の経験に基づいた我々への忠告であり、ブラック・マジシャン・ガールが言っているのは「日本って(アクナムカノンとアテムの治世下で混迷を極め国力が衰えた古代エジプト第18王朝みたいに)住みづらくなっちゃった」という、要は  “俺達みたいになるなよ!”  というメッセージであるならごめんなさい。上記の批判は全て取り消します。そこまで身を挺してまで、我々の関心を政治へ向けさせようとしてくれたことに感謝をします。)
 

【NARUTO -ナルト-】努力の天才ロック・リーを全力で考察【BORUTO -ボルト- 登場記念!】

 

 

 NARUTOが全盛だった頃、私はちょうど中学生。直撃世代です。

 推しメン(当時はこんな単語すらなかった)はサスケとハクとカカシ先生という典型的すぎる美形厨だった私の人生は、中忍試験編が始まり満を持して登場してきたあるキャラによって狂わされたのでした。

 

 はい、努力の天才ロック・リーです。

 

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 (右:NARUTO 20巻 180話、左:アニメNARUTO -ナルト- より)

 考察などとタイトルにうたってありますが、ただひたすら個人的な燃え(萌え)ポイントを語っているだけです。

 こんなこと考えてる奴もいるのね〜くらいに軽く読み流していただけたら幸いでございます!

 

 

 

概要。「努力の天才」ロック・リー

 

 忍者のマンガなのに忍術の類を一切使わず殴る蹴るだけで戦うという、最高にロックな精神のド根性キャラ。

 ギリギリ感あふれる熱血ギャグ落ちこぼれが努力の力で天才を打ち負かす」というシリアスなテーマが見事に同居した、NARUTOの裏主人公といっても過言ではないマスコット的存在です。

 2012年には彼を主人公としたスピンオフ作品までリリースされています。

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ロック・リー忍伝 DVD 第17巻 より)

 

 

 外観。「ダサいのにカッコいい!」至高のギャップ燃え

 

  オカッパ + まゆ毛 + まん丸の目 という3つの要素がアイコンとして秀逸で、誰が描いてもロック・リーと認識されるデザインはインパクト絶大。デフォルメとの相性も抜群です!

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(アニメNARUTO -ナルト- より)

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↑カエルのような丸い目は『忍空』の風助(※1)を彷彿とさせます。(アニメNARUTO -ナルト- OPより)

 一人だけ画風がぜんぜん違うというか、露骨に濃ゆい熱血ノリやガイ先生とおそろいのタイツ風コスチュームもあいまって初見の印象では完全に "色モノ" 状態。

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僕のヒーローアカデミア1巻1話、7話より)

 なのにサスケをぶっ飛ばすくらい強いときて、この時点ですでにギャップがヤバイ。仮にも主人公のライバルキャラであるサスケを、悪役とか神とか師匠とかいうわけでもないいちサブキャラのロック・リーが実力で圧倒しているという展開が意外すぎて、読んだ当時はかなり驚きました。

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NARUTO 5巻 37話より)

 古典的な美形を表すマンガ記号は「切れ長の目」、現代風イケメンの記号は「サラサラの前髪」などですが、通常時のロック・リーは完全にそれと正反対です。

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(アニメNARUTO -ナルト- より)

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 NARUTO 5巻 37話より)

 ただ、その記号的さゆえか、ロック・リーのデザインはシーンごとに全く違った印象を与えます。緊迫したシーンでは険しい表情になり目と眉がくっついて、ドラゴンボール的イケメンの面持ちを得ます。雰囲気もグッとシリアスになり、もはや別人。

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 ↑ 戦闘中の表情は真剣そのもの。(アニメ NARUTO疾風伝 より)

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↑ 躍動感あふれる空中での戦闘シーン。ふつうにカッコいいデザインに見えます。(NARUTO 5巻 37話より)

 普段は重たいヘルメットのようなオカッパ頭が激しい動きで振り乱れ、ピッタリとした衣装は体の線が分かりやすく、もはやアクション入った時の見映えとギャップのために考え出されたとしか思えないデザイン。

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 (アニメ NARUTO -ナルト- より)

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 NARUTO 24巻 209話 より)

 何が凄いって、分かりやすい外観の変化(髪や目の色が変わる等)は無いのにオカッパ頭がヴィダルサスーンに見えてくるほどの印象ギャップですよ。

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60年代ファッションシーンで一大革命を巻き起こしたサスーン・カット。「振っても元に戻る」というテレビCMのキャッチフレーズが印象的。

 しかも話が進むにつれ実際の性格は誠実、謙虚、弱い者に優しい、小動物に好かれる、ひたむきな努力家で、見かけによらず真面目なキャラであることが分かります。

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NARUTO 6巻 52話 より)

 ロック・リーの魅力の80%以上は、この外観と中身とのギャップにあると言ってもあながちウソではない気がします。このギャップにやられたファンは多いのではないでしょうか。

 

 

ロック・リーのモデルとなった人々 

 

ブルース・リー

   ロック・リーという名前は、伝説の香港カンフー映画スターブルース・リー李小龍:リー・シャオロン)のもじりと思われます。「ブルース」を音楽ジャンルとしてとらえて、そこを「ロック」に置き換えたわけですね。(ロックはブルースから、そしてメタルはロックから派生した音楽といわれています。)

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(映画「燃えよドラゴン」より)

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↑↓(映画「死亡遊戯」より)

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↑ ロック・リーのトレードマークとも言えるあのツナギ風の衣装は、ブルース・リーの有名なトラックスーツへのオマージュか…?

 彼が日々こなしていたトレーニングメニューというのが、キック2000回、パンチ5000回、ウェストツイスト360回、シットアップツイスト100回、レッグレイズ100回、ラーニングツイスト200回……これはほんの一部だそうです。

 トンデモな逸話も多く、動きが速すぎて24fpsではフィルムにちゃんと映らなかった、サンドバックを蹴りで破裂、素手の指突きで缶に穴、腰の仙骨神経を損傷してしまい医者は武術を続けることは不可能と診断したが驚異的な回復を見せ5本の映画に出演、などなど…。

 リアルロック・リーというか、ブルース・リー本人がそもそもマンガみたいな超人でした。

 

ジャッキー・チェン

 ロック・リー片手を腰の後ろに添え、もう片方の手の甲を相手に向ける 独特の構えポーズ(※2)酔拳などの技は、同じく香港映画スターのジャッキー・チェンをパロディしたものと思われます(アクション俳優のジェット・リーも同じようなポーズをしますが、手の角度が微妙に違うのと、相手を挑発するための仕草も入ってるのでたぶん違います。)

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↑ ジャッキーが腰の後ろに左手を当てているのは、チャイナ服の長い前垂れを左手でたくし上げているため。(左: 映画「酔拳2」、右: NARUTO10巻82話 より)

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酔拳の構え(左上)。逆立ちしたまま両足で蹴りまくるジャッキー(左下)。NARUTOでも似たようなシーンが…。(左側:映画「酔拳2」、右側: NARUTO10巻82話 より)

 映画『酔拳2』のジャッキーはモロなので興味ある方はぜひ確認してみてください!とくにVS君麻呂戦のリーの動きがモロです!!

 

ブルース・リーだけどジャッキーチェン? 

 ロック・リーは香港映画の2大アクションスターにインスパイアされたキャラクターですが、2人の俳優は全くと言っていいほど正反対です。

 名前の由来ともなったブルース・リーは、目にも止まらぬ(比喩とかでなく、ガチで見えない)高速の突きや蹴りで敵を粉砕し、"己の肉体を武器化" する真っ向勝負の武闘家スタイル。戦闘時の雰囲気はシリアスそのもので、ロック・リーのコンセプトはこれらの点と非常に似通っています。

 ブルースはガチンコバトルの似合う熱い役柄ながらも、気の強い不敵な表情が多いです。この辺はむしろ息子のメタル・リーのキャラが近い気がします。(まあブルースは実際めちゃくちゃ強かったからこそコレがサマになってたわけですが。)

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↑ 基本、真顔なブルース・リー。敵を挑発するような微笑が印象的。(映画「死亡遊戯」より)

 一方のジャッキー・チェンは真剣に戦っているシーンですら可笑しく「てんやわんや」という言葉がまさにピッタリ。コミカルなお笑いノリの似合うチャーミングな俳優で、普段のリーのイメージはこちらの方が近いですね!

 ただし戦い方はリーと真逆で、ジャッキーは1対多数がもっぱらの  "環境を武器化"  するスタイルです。椅子、ロープ、道ばたの木、自転車で荷物配達中のおじさん等々、身の回りにあるモノは何でもかんでも利用します。一番すごかったのは入浴中に襲撃されたヒロインのバスタオルを引っぺがし敵が女性の全裸に気を取られた隙に倒すという荒技。しかもヒロインに殴られ「作戦だよ!」と逆ギレする潔さ。

 個人的に、ロック・リーの息子とされるメタル・リーはジャッキー・チェン寄りの、ドタバタ乱戦が得意な実践的武術・ケンカ殺法スタイルでも面白いかも?……と、チラッと思いました。 

 

 

キャラクターコンセプト。「スーパーサイヤ人へのアンチテーゼ? 」

 

 ロック・リーを語るうえで外せないのがなんといっても必殺技の裏蓮華。というより、重要なのはその前段階で行われるリミッター外し八門遁甲」です。

 ここで原作者・岸本斉史先生の孫悟空ではなくクリリンの立場の人を主人公にしたい」という旨の発言を思い出しつつ、八門遁甲の体内門を解放した時のリーの姿に注目してみます。

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 NARUTO 10巻 85番 より)

 髪は逆立ち、目つきは鋭く変わって、衝撃波のようなオーラを身にまとっています。そして何より、これ自体は攻撃技ではなく "戦闘力アップ" の段階だということ。

 明らかにスーパーサイヤ人へのパロディ・オマージュです。

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(左: NARUTO 10巻 85話、右: ドラゴンボール 34巻 408話 より)

 エリート一族の血を引いているとか生まれながらの強さを持っているわけではない クリリンの立場の人」であるロック・リーを、あえてスーパーサイヤ人にしちゃう。

ここに作者のマンガに対する思いというか、 オレはこういうのを描いてやるぞ!!!」という気迫のようなものさえ感じとれます。

 

 

5.戦闘スタイル。「忍術の使えない忍者」

 

忍術・幻術を一切使わない

 ロック・リーの個性をなにより強固なものにしているのが、体術のみで戦う」というド根性とクソ度胸。そもそも忍者のマンガである本作に真っ向からケンカを売りに行くスタイルです。

 作中のどこを見回しても「忍術・幻術を一切使わない」というキャラは他に存在しません。ガイ先生だって幻術返しや口寄せの術などを使っています。

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 (NARUTO 10巻 82話 より)

 またストーリー上、「砂の絶対防御で触れることすら出来ない」「骨格が異常に頑丈であらゆる物理攻撃を寄せ付けない」あげく「体中から尖った骨を突き出させ、殴った方にダメージ」などなど、明らかに相性の悪すぎる敵にぶち当てられ、その度にボロボロにされています。

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 NARUTO 10巻 82話 より)

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 NARUTO 24巻 211話 より)

 どんな術を使う敵が相手でも、彼は素拳による直接攻撃のみ(※3)を武器に立ち向かいます。この地味すぎる戦闘スタイルが根幹にあるからこそ「裏蓮華」のような超必殺技にも説得力があり、その愚直な性格とも絶妙に引き立て合って読者の共感を誘います。

 しかもベースに熱血ギャグがあり、顔がいわゆるイケメンではなく主人公でもないので、その健気なまでの真面目さひたむきさが全く嫌味にならないのです

 多分ですが、NARUTOを読んでいる人でロック・リーに興味がない人はいても、積極的に嫌いだという人はあまりいないんじゃないでしょうか。

 

「木ノ葉流体術」と「酔拳

  ブルース・リージャッキー・チェン等へのパロディをみると、カンフーや中国拳法からの影響が強そうに思えます。しかし普段のロック・リーの戦闘スタイルは力強く直線的で、どちらかといえば日本で創始された少林寺拳法極真空手の動きに近い印象を受けます。そこはやっぱり忍者だからか?(武道を習ったり詳しいわけではないので間違ってたらゴメンナサイ。)

 設定上では、ロック・リーの体術は「木ノ葉流体術」というマンガオリジナルの架空の流派となっています。

 君麻呂と戦った際には「直線的すぎる。」と評されましたが、その弱点を、リーは常識外れのスピードでカバーしていた…と考えることもできます。だからこそ、そのスピードに対応してくるレベルの敵(君麻呂など)に当たった時はかなりキツイ。

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NARUTO 24巻 210話 より)

 そこで、「天性の酔拳使い」という追加設定がロック・リーというキャラに新たな息を吹き込んだのです!

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NARUTO 24巻 210話 より)

 ブルース・リーなのにジャッキー・チェンという洒落もきいて、彼の弱点を補う特技でもあり、この酔拳という設定は大当たりだと思いました。

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↑ この扉絵は布石か…?酔ったガイ先生に酒を勧められ断っている?かのようなロック・リー。タイトルは「リーの秘密!!」(NARUTO 10巻 82話 より)

 もともとロック・リーは、捨て身技の裏蓮華を使わずとも我愛羅の砂のオート防御をかいくぐれるほどの超人的なスピードを身につけていました。もし 日向ネジvsロック・リー戦 が実現していたとして、いくら白眼で見切ってもあれだけの速さで動き回る相手の点穴を狙って正確に突くことは難しいでしょうから、いい勝負になったはず。「目で分かっていても体が動かないんじゃ どうしようもないワケです」という台詞はサスケだけではなく、実はネジにも向けられていたことは、「打倒ネジの答えはそのハイスピードコンボ」という作中の解説や「裏蓮華はネジを倒すためのとっておき」だとリー自身が言っていることからも明らかです。

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↑ サスケにかけようとした技は「表蓮華」です。裏の方はネジにとっておくためか。(NARUTO 5巻 37話 より)

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NARUTO 10巻 85話 より)

 しかし、我愛羅には砂のひょうたんをクッションにすることで防がれ、君麻呂にいたっては(手術直後で病み上がりのハンデがあったとはいえ)素で動きを見切られています。

 結局のところ、パワーやスピードで押し通れない場面というのが必ずロック・リーの前に立ちはだかってきて、しかもどこまで大きなパワーやスピードを出せるかの限界はすでに作中で提示されてしまったのです。

 ロック・リーの強さの限界、それは八門遁甲の第八門を開くことです。

 マンガ的には、強い敵に遭遇→八門遁甲の体内門をどこまで開けるか…という展開以上に描写のしようがなく、キャラクターとしての旨味は中忍試験編でほぼ描ききった、と作者は考えていたと思います。だから八門を開く役割はガイ先生に振ったのでしょう。

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NARUTO 10巻 87話 より)

 だからこそ酔拳という新しい特技は、作中での扱われ方以上に大きな意味を持っていました。というか、柔の動き(酔拳)と剛の動き(木ノ葉流体術)とを意図的に使い分けるようになったら地味に強そうな気がします

 彼の代から木ノ葉流体術は「酔拳を併伝するようになったら面白いかもしれませんね!

 

チャクラ練れないのに、どうやって水面を歩いたり壁にはり付いたりしてるの?? という議論

  作中でのロック・リーは、水面を歩いたり「八門遁甲」のような術を使っていることからも、チャクラそのものが無い・練れないわけではないようです。

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(アニメ NARUTO -ナルト- より)

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NARUTO 10巻 90話より)

 よく誤解されていますが、「八門遁甲」そのものがチャクラを必要とする技です。つまり、の解説でいうところの "例外" です。

 忍術も幻術も使えない = チャクラが使えない  という単純な結びつけは誤りです。

 作中の解説では、"脳のリミッター・あるいは体内に流れるチャクラの量に制限を設ける『八門』という体内門を、チャクラによって無理矢理はずす・こじ開けることで、極限まで身体能力を引き出す"  ことが八門遁甲の極意とされています。

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 (NARUTO 6巻 52話 より)

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NARUTO 10巻 85話 より)

 もしロック・リーがチャクラを練れないとしたら、八門遁甲の体内門を開くことも、そこから「表蓮華」や「裏蓮華」といった技につなげることも出来ません。

 ここからは完全に妄想の域ですが、、、彼はチャクラを練って自分自身に利用することは出来るが、チャクラを忍術や幻術に変換して体外へ放出する何らかの過程で先天的な欠損があるのかも??逆にそのため、体内での利用にはロスが少なく(というか過剰適応で)八門遁甲のような特殊な術への適性につながっているんだとしたら(そういう裏設定みたいなものが仮にあったとしたら)、その人の短所は長所にもなる」という作中の台詞にも納得です。

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 NARUTO 69巻 668話 より)

 

 

6.内面の描写。「努力は必ずしも報われない?」

 

 ロック・リーは最初こそお笑い担当の中ボス的な登場をしてきましたが、後々になって当時のナンバー1、2を争うかという桁違いの実力を見せつけ、読者の予想を遥かに超える熱い活躍でNARUTO黄金期を駆け抜けました。

 しかしその道のりはというと、負ける→修行→強くなる→勝つ、のような少年マンガの王道パターンとはかけ離れたものでした。

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NARUTO 10巻 87話 より)

 中忍試験のトーナメント戦にて、彼は砂隠れの我愛羅を相手に自滅覚悟で挑むもあと一歩およばず、半ば暴走状態となった我愛羅の執拗な攻撃で手足を潰されてしまいます。それ以前に、切り札の「裏蓮華」を使った時点で彼の全身はボロボロ。この一連の大ケガは、体術以外に生きる道がない彼にとっては致命的なものでした。

 ケガで戦線離脱している間にもライバル達はどんどん力をつけ、天才サスケに至ってはたった一ヶ月の修行でリーとほぼ同質・同等の体術を身につけてしまいます。リーが少なくとも一年以上をかけて習得したものをサスケは一ヶ月です

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 NARUTO 13巻 112話)

 そのうえサスケには相手の動きを見極める「写輪眼」があるので、同等の体術を使う者としてサスケはリーの上位交換のようになってしまいました。

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NARUTO 13巻 114話 より)

 しかもさらに悪いことには、第一回戦でナルトが「日向ネジを倒してしまっています。

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NARUTO 13巻 109話 より)

 ナルトが純粋に力でネジを上回ったというよりは裏をかいての作戦勝ちという展開にした辺りに作者の良心を感じますが、そもそもリーが血の滲むような努力をしてきたのは "天才ネジを倒す" という強いライバル意識が背景にあってのこと。

 ネジを倒すための切り札として習得した「裏蓮華」による負荷で自身は戦線離脱を余儀なくされ、そのネジはあっさり他人に倒され、リーの努力とはいったい何だったのでしょうか?

 ここまで「努力」というものを徹底的に打ちのめされ、ボコボコにやられたキャラが、かつていたでしょうか?

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 NARUTO 13巻 110話 より)

 ロック・リーは強いキャラであると同時に、弱いキャラであるということも忘れてはなりません。

 彼の毎回の役割はメインキャラが活躍する前の"前座"であり言ってしまえば"かませ"なのですが、ストーリー上ぜったいに勝ってはいけないシーンだからこそ、本来そうした役割は適当なギャグキャラに振ってお茶を濁すか、サッと済ませるパターンが多いです。しかし、作者はこのロック・リーだけは、真正面からぶつからせました。

 うずまきナルトとロック・リーはまるで作者の理想と投影のようです。

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NARUTO 10巻 87話 より)

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 NARUTO 9巻 81話 より)

 ナルトは「主人公はかくあるべし」の部分を担当し、読者の期待に応える。一方で、リーは「でも現実ってこうだよね」の部分を担当し、鳥山明大友克洋といった天才達の背中を追いかけてきた作者自身が投影されているように思えます。

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NARUTO 10巻 87話 より)

 ロック・リーの家柄や親兄弟に関する描写は作中に一切ありません。息子とされるメタル・リーですら、母親の設定などは一切なし。いったい、なぜ??

 「努力の天才」に血筋は関係ないからです。

 どこの家の誰の息子だろうが、その人自身が努力して身に付けた力で立ち向かうことが重要だからです。

 才能はなくとも努力して、ボロボロになって刀折れ矢尽きるまで戦ってそれでも負ける救いようのなさ、努力をしたからといって必ずしも報われるとは限らない、一生報われないかもしれない、それでも努力し続けられることのカッコよさ

 主人公として勝利をつかむ運命にあるナルトには決して振れない役割を、ロック・リーが補っていました。

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 NARUTO 69巻 617話 より)

 マンガの連載がどんな引き延ばしにあい、どんなパワーインフレが起ころうと、努力に努力を重ね懸命に走り続ける彼のひたむきなキャラクター像がブレることはありません。

 その輝きは永遠です!


 次回
【考察2】努力の天才ロック・リーが"裏主人公"であるわけへ続く

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脚注

※1: NINKU -忍空-(桐山 光侍)
 90年代を代表する少年ジャンプの看板作品。NARUTO作者の岸本斉史先生は過去に忍空の続きが読みたくてNARUTOを描いた」と本気か冗談かコメントしており、奇しくもロック・リーの顔が忍空の主人公に酷似していたのでした。

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 (アニメ NINKU -忍空- より)
 「忍空」とは、「空手」の力強さと「忍者」の素早さ・技を組み合わせた架空の武術。ロック・リーの体術が空手のような力強い動きなのも忍空からの影響…かも??

※2:構えポーズの由来
 ジャッキー映画の中で男性が着ているチャイナ服の長い前垂れの部分がありますね?戦闘になると、あの前たれを足で跳ね上げながら片手でキャッチし、素早く腰の後ろへたくし上げ、そのまま押さえておきます。そしてもう片方の手を前にかざし、低く構えます。おそらくこれがリーの構えポーズの元です。超カッコいいです。とくに映画『酔拳2』のジャッキーがモロなので興味ある方はぜひ!

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 (映画「酔拳2」 より)

※3:素拳による直接攻撃のみで戦う
 TVアニメや映画などのメディアミックス作品ではロック・リーが手裏剣やクナイなどの投てきアイテムを放つシーン、ヌンチャクや棍で戦うシーンが描かれましたが、原作ではほぼ皆無。ただカブトの持っていたデータなどから、忍具を扱う高い技術を持っていることだけが示唆されています。

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NARUTO 5巻 39話 より)
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【ボルト BORUTO ネタバレ感想】5話 父親に不正がバレて1回休み。ボルト起死回生なるか…?!【ナルト NARUTO】

 

※この記事の画像は、すべて週刊少年ジャンプBORUTO』および、同誌『NARUTO』より引用したものです。

  

 コミカライズ版 BORUTO(ボルト)第5話の感想・考察です。 

ボルトの映画は見て話は知ってるけどコミカライズがどうなってるのか気になる」
「ぶっちゃけ作画どんな感じなん??」

という方向けの内容となっております!

 

 今回の扉絵はこちら!

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ボルトの不正がついにバレた…!

 相変わらず作画はキレキレで素晴らしい!池本先生の絵ってマンガ絵と写実っぽさのバランスがちょうど良いんですよね。ナルトやボルトはイメージをこわさないよう配慮してるせいか…?この2人だけは表情が画一的で控えめな気もしますが、他はみんな生き生きしてて、ただ喋ってるだけでもなんかカッコいい。

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↑ 本当に「あぁ〜あ…」って顔の黒ツチ。なんか色っぽい。

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↑ 遠慮とか謙遜じゃなくガチでめんどくさそうなシカダイ。

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↑ 意外と表情豊かなサラダ。一話目のイメージだともっとクールそうな感じでしたが、ヒロインとしての親しみやすさが出てきましたね。ミツキも映画より表情にバリエーションが増えました。

 ストーリーとしては映画の筋書き通りで、ボルトの科学忍具使用がバレて失格扱いになり、会場は「えぇー…みたいな空気になります。

 審判に見つかるのではなく、あえて父親であるナルトから直接「お前は失格だ。」とやることで、読者のボルトへの感情移入がさらに高まりますね!展開としてもその方が断然盛り上がるし。

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↑ 父親自らの手で、忍者の証である額当てを外されます。これはキツイ…!

 各里の影たちや同期の仲間、家族、大勢の観客の前で、まるで吊るし上げのような状態です。そこへ、いけしゃあしゃあとカタスケが登場。う〜んあざとい。悪そうな顔してますね〜

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 この時点で、科学忍具 = 怠惰の象徴 → 修行して身につけた本当の実力こそが正義という構造が見えてくるわけですが……

 

いきなり敵ボス登場!中忍試験は大パニック!

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 ここで映画でのボスキャラが登場!

 ボルトにとってはニッチもサッチもいかない気まずすぎる状況をぶっ飛ばすかのような絶妙なタイミング。観客からしたらもうこいつらのイメージの方が強烈すぎて、騒ぎが収まった頃にはボルトの反則負けなんか半分うやむやになってるでしょう ^^;;

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↑ なにげにシカダイをかばっているロック・リー他のキャラはみんな吹っ飛ばされてますが、リーだけは姿勢を維持したまましっかり構えてます。さすが…!!細かく描いてくれてありがとう!!

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 ダルイのツッコミがいちいち的確で面白いww 一発で意思疎通する我愛羅カンクロウが渋くてカッコいいです。

 ここで、一般人を手際よく避難させるサブキャラたちの活躍が描かれます。

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  サクラが崩れ落ちてくる天井を粉砕し、降りそそぐ瓦礫をテマリの風遁で吹き飛ばします。見事な連携プレー!テマリさんの生足がまぶしいっス。

 よく見ると、サクラの殴り方が映画とは微妙に違います。彼女の「怪力」は精密にコントロールされたチャクラを一点集中し拳から放出するもので、直接殴っているわけではないことが分かりやすい描写ですね。サクラの手はきっと柔らかいでしょう!!

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↑ サクラの険しい表情がNARUTO本編よりぐっと大人っぽい。

 また、映画にはなかったシーンも追加されてました!

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↑ よく見ると、ヨド(女の子の方)とアラヤ(お面かぶってる方)が前へ出ようとするシンキに続こうとしています。やはりリーダー格はシンキか。

 マンガ版で『シンキの義理の父親が我愛羅という設定が出てきたおかげで可能になったやり取りですね!

 我愛羅があまり耳慣れないような単語を使ってますが、「彼我戦力」=「敵軍と自軍の戦力」ですね。思わずググりました。軍事派生の用語です。

 NARUTO世界での "忍" はある種の軍事組織のように描かれてますから、こういうお堅い軍事用語がバンバン飛び交う会話とか、意外と相性が良さそうですよね!シンキは兵法とか戦術学を叩き込まれて育ってそうだな…。なんとなく。

 

で、待ってましたのこのシーン!!

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 サスケがカッコいいのは言わずもがなですが、サラダのミニスカート良いですね。エロくなく健康的な色気が最高です。

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 サスケは少しとっぽい印象になりました。NARUTO本編の初期のサスケだったら、こういう台詞は思いっきり不敵なドヤ顔で言ってたと思います。しかしフツーにさらっと言わせることで、大人の余裕すら漂ってますね。池本幹雄のサスケ良いなあ…。

 

科学忍具はやっぱり "悪モノ"?

 

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↑ サスケの表情がいちいち渋くて痺れます。

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 まあ要するに科学忍具のことをも、暗に批判しているわけです。暗にというか、かなり露骨にですけど…。

 う〜んなんだかなあ…これが20年前のマンガだったら全然アリだし激アツな展開なんですが、今ってベイマックスとかがアカデミー賞をとるような時代なんですよ。

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↑ 「ベイマックスウォルト・ディズニー)」はアメコミヒーロー映画。主人公の少年ヒロやその仲間達は全員重度の科学オタクで、自らの発明品を武器に悪と戦う。(画像は公式サイトより引用)

 科学は人間を助けてくれるもので、いまや我々の良き友人です。むしろ日本って、新しい技術をどんどん開発して高いレベルで使いこなすことで成長してきた国じゃないですか。

 今は科学の悪い側面を描いた作品であっても、悪と決めつけるよりかは、一歩間違えば悪にもなるから過信はすんなよ!と警鐘を鳴らすものが多いですよね

 つまり BORUTO って、時代の流れに思いっきり逆行しちゃってるんですよね……

 新しい道具や技術にどんどん順応して使いこなして、ものごとを精神論でとらえず合理的に処理しようとする感覚に関しては、今の若い世代の方が遥かに進んでます。そしてこれからはおそらく、そちらが主流になります。そんな時代の流れに、BORUTO のテーマ性は完全に逆行してしまってるんです。

 いや…もちろんその、言いたいことは分かるんですよ。。自分の手も動かさず、努力したり本気になって頑張ることを避けて、便利な力に逃げちゃいけないよ。というメッセージなんですよね。それ自体はすごく良いんです。あえて時代に逆行するテーマを描くことで、利便性ばかりを追い求める現在の風潮に一石を投じようとする狙いもおそらくあったと思います。岸本先生のそういう精神が、連載当初から大好きです。

 ただ、本来なら良い面悪い面の両方があるはずの『便利な道具』をほとんど頭ごなしに糾弾しているので、ものすごく偏ったテーマに見えます。問題なのはテーマそのものというより、描写の方法です。

 「科学忍具」という小道具の描かれ方、敵ボスの能力の露骨さ、いまどき悪役が「下等生物」とか言っちゃう勧善懲悪っぽさ……すべてが悪い方に化学反応を起こしてしまって、"古き良き" というよりかは、どちらかというと "古臭い" の方かも……

 「そんなもん本物の実力じゃねえ!」と糾弾するんではなくて、これが例えば「科学忍具は下忍にはひたすら脅威、上忍クラス相手にぶっぱは通用しない。その性質上、中忍試験では禁止しているが実戦で使いこなせれば戦術兵器として有用」くらいの中立的な扱いだったら、もっと描写が変わってたんじゃないでしょうか……?

 もっと言えば、尾獣(人柱力)の力を "悪しきモノ" として糾弾することは簡単で、現にナルトは里の人間にハブられてたし九尾の影響のせいで自分のチャクラをコントロールすることもままならず、落ちこぼれの烙印を押されてました。今でこそ九尾のチャクラはチートだ等と言われますが、当初のナルトにとって九尾のチャクラはマイナスでしかなかっわけです。しかしナルトはその力と向き合い自分のモノにし、マイナスを大きなプラスに変えていくことで、最終的には「火影になる」という夢を叶えました。

 尾獣は特定の人しか持てませんが、科学忍具は誰でも持てます(力の規模の違いこそあれ)。

 取り方によっては、尾獣とか血継限界とか八門遁甲とか、そういう特別な力を持たないモブみたいな忍者であっても、誰でも、科学忍具でワンチャンあるって考え方も出来るわけじゃないですか。その人が努力して技術と戦術を磨きさえすれば、「クリリン側の人を主人公に」どころかヤムチャでもワンチャンあるで!!みたいな。

 「科学忍具」というアイディア自体はすごく画期的なので、このまま単なるチートアイテム扱いで終わったら純粋にもったいないです。岸本先生がせっかく長年温めてたアイディアなんだし………。(「起爆札」とかの更なる進化形アイテムと捉えていい気がする。)

 

 

  …というのはごくごく個人的な妄想です。
 人それぞれの考え方や好みにもよりますしね!

 

火影ナルト、ついに本領発揮!!

 やっぱり、ナルトの王道展開は熱いです!!

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子供たちをサスケに託し、覚悟を決めたように微笑むナルト。立派に成長したなあ…(涙)

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もはやツーカーの2人。サスケも、ナルトの覚悟を感じ取ったようです。ボルトは動揺が隠せませんが、サラダを背後にしっかりかばってます。

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  たぶん、ここでナルトはいったん退場、マンガオリジナルのストーリーへと徐々に移行していく流れになるのかな?と思います。ナルトやサスケがいつまでも前にいると、その下の新世代のキャラ達が活躍できないですからね。

 

今後のストーリーは……?

 ここからは完全に私の妄想ですが、木ノ葉、砂、雲隠れが一丸となって事件解決に乗り出す流れになって、合同チームが組まれて、中忍試験で敵対してたキャラ同士が今度は仲間として協力する関係になる……

 みたいな感じでしょうか?!?!

 

  いやいやいや……。まだ基本のスリーマンセルの活躍すら描かれてないですからね…。ボルトたち3人はパンダの捕獲だけ。猪鹿蝶のフォーメーションもちゃんとお披露目されてないし、ぜんぜんキャラが出そろってません。

 いきなり混成チームとかは無いだろうなあ…。他の班員が一切描かれてないメタル・リーとかどうすんだ…?シンキに旗とられて適当にギャグっぽくお茶濁して終わり??

 シノやテンテンやキバには子供はいないんだろうけど、せめて犬塚一族や油女一族出身の新人下忍のキャラとか、マンガオリジナルで登場してきてもよさそうな気がするんですけど、それも無いのかな〜……

 

 今回はごめんなさい!できるならずっと好評系の明るい話題でいきたかったんですが、ちょっと批判みたいな内容も入ってしまいました^ ^;;;

 いろいろ書きましたが、マンガ版BORUTOの先の展開はまだまだ分かりません。
オリジナルキャラのカワキは登場してすらいないし、新世代のキャラ達の活躍もぜんぜんまだです。

 

 これからも変わらず、本誌でBORUTOを追いかけていきますよー!

 

個人的にツボった作画まとめ

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 映画よりもスマートな印象のロック・リー池本幹雄の卓越した作画センスとファッション感覚によって、何ともいえないツナギのようだった衣装がブルース・リーのめちゃカッコ良いトラックスーツに生まれ変わりました。「袖、破れてる…」→「切りっぱなしデザインおしゃれ」ぐらい印象が違って見えます。

 そしてなんと、ナルトの呼びかけが「ゲジマユ!」ではなく「リー!」と名前呼びに。(あれ?映画もだっけ?)ナルトも大人になったんですね。よかったよいきなり「ロック!」とか言い出さなくて。

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 シーンがいいですよね…。「ちゃんと説教されてたら…」というボルトの悲痛な叫びは、本当は構ってほしい!!自分を見てほしい!!という思いの裏返しですね。

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 映画を観てたときは正直パッとしないデザインの敵キャラと思いましたが、マンガ本編で見ると表情や立ち方のアングル等もあいまってか神秘的にすら見えます。

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 シカマルは NARUTO 本編よりもこの歳とった姿の方が断然イケメンに見えるのって単なる個人的な趣味の問題なんでしょうか。モモシキの表情にも貫禄があります。

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 科学忍具のチャクラをモモシキに吸収させてしまったことに責任を感じるボルト。今度は道具に頼らず、たった1人ですが自分で出した影分身でサラダをかばいます。健気です。

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 このマンガの女性キャラは表情が凛々しいというか強くて、実に良いですね!!ヒナタはNARUTO本編よりこっちの方が個人的に好みです。ひまわりちゃん可愛いよ…。急成長して誰かとスリ-マンセル組んでくんねえかな…。番外編であんなに強かったし。

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 映画では表情の変化にやや乏しかったミツキ。マンガ版でもひょうひょうとした雰囲気は変わらないものの、人間味のあるリアクションが増えました。イケメンですね。

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 ん?!!

 あれ、こないだチラッと出てきたメタル・リー。敬語喋っとるやん!!!マンガでは確かまだ敬語で喋るシーンは描かれてない。読者からオリジナルキャラクターのアイディアを募る企画ページのやつですけど、コレは企画ページのライターが適当に描いたやつなのか、ちゃんと脚本家のセリフに基づいてるのか…?

 メタル・リーは相手をみて敬語とタメ語を使い分けるタイプか、独り言とか頭の中だけタメ語で考えてるタイプか。まあロック・リーも最初のセリフなんて「おいおいおい聞いたかよ」とかでしたからね。すぐ敬語になったけど、音忍とか敵にはけっこう威嚇的な喋り方をしてたし、そのうち頭の中まで敬語で独りごと言うキャラになったかと思えば、最終回近くの回想シーンではネジとふつうにタメ語で会話してたり。この系統のキャラは口調にバラつきがありそうなので何気に楽しみです。笑

 

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