映画DSODでどうしても「?」と思ったこと。海馬は死んだ??【遊戯王 感想 考察 劇場版 原作】
※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、他の方の考えを否定したり、作品を貶めるものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。
1.はじめに
このブログ記事を書いているひとは遊戯の声が緒方恵美だった頃のアニメを見て育ちましたが、それ以降は某動画サイトでネタにされているのを見かけるくらいで、他の遊戯王シリーズにはほとんど触れることなく劇場版THE DARK SIDE OF DIMENTIONS(以下、映画DSOD)を観て遊戯王にハマりました。
観る前:あ〜遊戯王か〜途中で声が変わってカードゲームやるようになってから全然見てないんだよな〜MADとかネタのイメージしかないけど映画なら体力使わないしちょっと見てみるか〜
観た後:ちょ……原作全巻買ってくる
なんの予備知識もなく見に行って一瞬で心を鷲掴みにされ、本作が単発の映画として桁外れに魅力的で優れた映像作品だったことは疑いようもありません。
しかしながら、後追い的に原作を読み進めた私はかえって映画DSODのストーリーに奇妙さを覚え、ハマったきっかけの作品に対して疑問を持つという見事なこじらせを発症。
本稿はなんでそんなことになってしまったのか自分の頭の中を整理する意味での雑記であり、他の方の考えを否定するものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。
2.「世界海馬ランド計画」どうなった ……?
原作バトルシティ編の終わりで海馬は養父への憎悪と向き合い 、幼い頃からの本来の夢である「世界海馬ランド計画」 のためアメリカへと旅立ち、メインキャラとしての区切りを迎えています。なので遡って原作を読んだとき、私は映画DSODのストーリーに少し違和感を覚えました。
もちろん、映画DSODでの結末もあり得る1つの未来だと思います。しかしこの映画での後付けのせいで、海馬は結局、目先の勝ち負け( 幼少期に義父から与えられた屈辱やトラウマを思い起こさせるもの、敗北=死という呪縛) に囚われ続けているキャラになってしまった。
映画DSODを初めて観終えたときの私は、原作での海馬は闇遊戯との決闘に関してよほど悔いの残る終わり方をした(決着がつかないまま中断してしまったとか)か、他の重要キャラに枠をとられてかなり中途半端な扱いのまま本編が終了してしまったのだろうと思っていました。しかし実際に原作を読んでみると……
『海馬… 今は敗れて憎しみに打ち勝て!!』
『瓦礫の底に眠る…オレのロード(夢)…』
『海馬くんは新たな夢に向かって旅立ったんだね…』
『ああ』
『そして…もう一人のボクの記憶探しの旅も今 始まったんだ!!』
あれっめっちゃいい感じに終わってね??!
確かにバトル・シティ編で海馬は闇遊戯に敗れています。そこで海馬は敗北という目の前の憎悪と同時に義父への憎悪とも向き合い、その象徴であったアルカトラズ(憎しみの塔)を爆破し海に沈めました。闇遊戯との決闘も、幼少期のトラウマも、マンガの話しとしてはいったんそこで決着が付いていたはず。
なのに映画DSODではそんなこと無かったかのように、その憎悪を闇遊戯(アテム)との決着に対する「執着」という形でさらにこじらせている。
あの話しって原作本編が終了から半年後とかの設定ですよね…原作の続編と銘打っておきながら、もうこの時点で原作のストーリーを踏み倒しにきてます。
勝ち負けそのものというより好敵手としてのアテム個人に執着している(アテムが自分に無断で冥界に還ったので躍起になっている。アテムとの決闘を愛している。)というような解釈は一応成り立つものの、なら海馬はなぜ遠く離れたアメリカでの事業のため旅立ったのかという話しになるし(活動の拠点をアテムのいる日本からアメリカに移す= "アテムに関係なく自分の道を行く" って意味だよな…?)、彼の本来の夢である「世界海馬ランド計画」を放り出してまでアテム個人に執着し続けるというのは、もはや作中に描かれたキャラクターのアイデンティティが崩壊しています。(むしろ同人誌であれば好きな展開です)
映画本編とその前日譚である読み切りマンガ『トランセンド・ゲーム』おいて、海馬はかなり本格的な軌道エレベーターと宇宙ステーションを作りあげ、アテムを地上に蘇らせること、そして次元上昇の方法を探っていました。あれだけ大がかりな宇宙開発を一企業が行うには、社運をかける勢いで巨額の予算を注ぎ込み海馬自身もそれにかかりきりでなければならなかったでしょう。
幼い頃の海馬が弟モクバと誓い合った夢「世界海馬ランド計画」は、次元上昇(アテムのいる冥界へ行くこと)を最終目的とする「ニューロンズ計画」へとすげ替えられてしまいました。バトル・シティでアテムとの決闘に敗れ、そのリベンジマッチを果たせなかったという理由だけで。
海馬というキャラクターの終着点 2020.5.25 追記
幼少時代の海馬は『世界中に遊園地を作ること』が夢だと語っていました。それは海馬ランドという " 箱モノ " を作ることではなく、幼少期の自分たちのような施設で暮らす子どもであっても、誰でも、みんなが遊べる空間を作ること。それが海馬の夢です。
そう考えると、最終的な目的は次元上昇にあるとはいえ「デュエル・リンクス」という世界を作りあげたことで、一見すると海馬の夢は形になったかに思えます。「海馬ランド」という前時代的な箱モノ計画が、端末さえあれば誰でも世界中どこからでもアクセスできる、時代の最先端を行くバーチャルリアリティの世界へと昇華されたわけです。となれば、もはや現世に悔いなしと会社を弟に託し、冥界へ行くという流れが生まれてもおかしくないように思えるかもしれません。
しかし、ここで我々が思い出すべきなのは、海馬というキャラクターの終着点、ゴールがそもそもどこにあったのかという話しでしょう。それは、義父にイカサマゲームを仕組んだことをきっかけに捻じ曲げられ、海馬が失ってしまったもの。目的を果たすための単なる手段としてではなく、弟や仲間たちとただチェスを楽しんでいた本来の「心」を取り戻し、幼少時代の純粋な夢を思い出す(叶える)ことです。
『あの日…イカサマゲームなんかやらなければ…兄サマは昔の兄サマのままでオレのそばにいてくれたかも知れないのに…』
『今 海馬は闇の中で自分の「心」のかけらを拾い集めている…』
海馬は単に慈善活動がしたかったわけではない。親はいなくとも施設で過ごした楽しい思い出があるからこそ、自分と同じ境遇の子どもたちとそれを共有したかった、そのための場所が『この施設にいるような 親のいない子供はタダで遊べる遊園地』なのであり、「海馬ランド」です。それこそが、原作DEATH-T編から繋がりバトル・シティ編のラストで提示された海馬の未来、彼の夢だったはず。
「デュエル・リンクス」の世界に海馬の夢はあるでしょうか……?無いですよね。少なくとも映画や前日譚の中で描ききられている内容を見る限りでは、リンクスの世界は海馬にとってあくまで次元上昇を叶えるため、アテムとの再戦を果たすという目的のための手段の一つです。これが海馬の夢であり終着点(ゴール)だと言えるでしょうか……?
(おそらく劇場版DSODの制作陣は、というか原作者でさえ、あまり昔に描いたことを意識して作品を作っていないと思います。当ブログみたいに細かいことをいちいち気にしてその場のノリで全てを楽しむことができないようなタイプの読者・視聴者をこのコンテンツはターゲットにしていないでしょう。言ってしまえばこのブログ記事そのものがナンセンスです。ラーメン屋に入ってパスタを要求しているようなものなので…。パスタを食いたいならサイゼ行けばという話し。)
3.「原作の続編」としてこの映画を作った意味……?
映画DSODの海馬は一見すると超ストイックに自分と向き合っているようでいて、闇遊戯に "敗北した" という事実と向き合えておらず、打ち勝てていない。敗北した自分を受け入れられない、許せないからこそアテムの影に囚われ、再戦を願う。これでは義父の呪縛にも未だ囚われたままということになりませんか?
他のキャラクター達は未来へと一歩を踏み出していく中で、海馬だけがアテムとの勝ち負けにいつまでも執着し続け、最後は自身の夢を担う会社も大切な弟も全てを置き去りに、冥界へ行ってしまう。
結果として海馬は好敵手アテムとの決闘に全てを捧げました。この映画のストーリーは胸躍る熱い物語であり、ラストシーンは壮絶で感動的であり、海馬の人生は痺れるようなカッコイイ生き様です。しかし、「原作の続編」と銘打ってこの話しをやる必要があったんでしょうか??(エンドロールの後で冥界から無事帰還する海馬の様子が描かれてたならまだ納得できた)
目的のためには手段を選ばず、命すら投げ出してしまう海馬の姿勢は、ヒロインである杏子によって一度完全に否定されています(この時の海馬は自分のためではなく弟のモクバを救うために闘っていました)。王国編でのそのシーンは作品テーマに関わるものであり、読者への提示でもあったはずです。『どんな時でも自分の手の中で命のチップを守り続ける』、つまり表遊戯のような人こそが本当に勇気ある芯の強い人なのだと。
この海馬の生き様もまた強さの一つだと言うなら、原作の続編を銘打った映画として、過去に作中で描いたことに対する反論をしっかりと筋を通して描くべきではないですか? (映画DSODでその海馬の生きざまが肯定的に描かれたこと自体はすごい嬉しかったです。)
仮にアテムとの決闘に勝ち、冥界から帰還できたとして、長い人生の中では負けることもある(それでも憎しみに打ち勝っていかねばならない)ということに海馬は耐性が無いままです。その様な状態で、海馬は王国編やバトル・シティ編をやっていた当時から成長したと言えるのでしょうか……?ましてや冥界に行ってそれきり(現世の人からすれば海馬は亡くなった)という最期で筋が通るでしょうか……?
というか古代では(やむなく変更されたという本来の構想では)キサラの復讐のためアテムを裏切り、現代になると今度はアテムのために全てを投げ出し、やっていることが少し刹那的すぎやしませんか……?
もちろん神官セトと海馬はまったくの同一人物というわけではないし、海馬の幼少期からの傷痕がそんなすぐに癒えるわけもないでしょう。それでも海馬の人生はカードゲームのためにあったわけではないし、 闇遊戯との決闘に負けたことで人生そのものをつまずかせてしまうようなキャラでもない、だからこそ弟のモクバと共にアメリカへ旅立って行ったのではなかったですか?
海馬と闇遊戯のそれぞれの闘い、闇遊戯は自分探し(記憶をめぐる闘い)、そして海馬はこれからも「義父への憎悪」と向き合っていく。勝負には負けたとしても憎しみに打ち勝っていくため、『己の中に巣食う憎しみという魔物』との終わりなき闘いのロードを歩み続けるため。闇遊戯に勝った負けたとかよりも、もっと大きな目標、本来の海馬自身の本当の夢のために。
4.海馬は冥界に行ったたま帰ってこない(死んだ)のか?
結論を言うと
死んでない
と思います。(臨死体験くらいはしたのかもしれないが……)
藍神との決闘が終わりアテムがまた冥界に帰って行った直後のシーン。海馬は表遊戯のことを一人の決闘者として認め、微笑みをたたえて去っていきます。そこでの様子から、自分が認めた強い相手との決闘を純粋に楽しむというような心はどこかに芽生えている印象を受けました。しかしやはり、そもそもの海馬の人生の目的は強い相手と決闘をすることでも、アテムに決闘で勝つことでもましてや愛だとかのためでもない。
海馬は未来へと進むために冥界へ行ったはずです。
アテムとの決着のため冥界へと突撃していくラストシーンは、このまま過去(アテムの影、敗北=死という呪縛を海馬に植え付けた義父の影)に囚われながら生きるくらいならリスクを冒してでも冥界へ行き、過去に対して決着をつけるという海馬の未来への意志であり、決してゴールではない、再出発のスタートラインです。
未来へと一歩を踏み出していくキャラクター達を描いたこの映画のテーマに対する回答があのラストシーンであるなら、海馬は冥界へ行った後(アテムとの決闘の勝敗がどうであれ)現世に帰還しなければならないと当ブログは考えています。(これは当ブログが勝手にそう考えているというだけの話しであり、他の方の考えを否定するものでは決してないです)
弟のモクバに後を託すような言動が随所で見受けられますが、トップとして優秀な人ほどもしもの場合を考えて手を打っておくものだと思います。弟に自分がいない間の会社を託すことと最悪の場合は死をも覚悟していること、この二つは矛盾しません。
ラストシーンで海馬が冥界にたどり着きアテムと出会ったところで物語の幕が下りるのは、そこでの決闘を最期に海馬の人生(ストーリー)も終わるということではない、ここまできてアテムと海馬のどっちが勝つとか負けるとかの話しをするのは野暮であり描く必要がないので、勝負の行方を視聴者にゆだねるための演出上の構成でしょう。
追記:このラストシーンで海馬が向かった先が「過去の世界」ではないことは原作者が明言しています。
原作者によって提示された『ひとつの未来のストーリー』
(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス)
原作者のインスタグラムで公開されたイラスト等をみるに、原作者個人の中では海馬は冥界に行ったまま帰らない=死んだ…のではなく、現世で表遊戯(自分が認めた相手)と新しいゲームの世界を創造していくというような未来が想定されているようで、個人的にはかなり安心しました。そうそう!!それだよそれ!!!!ありがとうマジで!!!
原作者は例のイラストを公開した自身のインスタグラムで『これもひとつの未来のストーリーです』とコメントしていますが、その真意はおそらく(多分)、劇場版DSODのラストシーンは観る側に解釈を委ねるように描かれているのに原作者が結末を提示して受け取り手の想像を縛ってしまう……という事態を避ける意図があったでしょう。あのインスタグラムの世界はいわばファンサービスという文脈の中で原作者が個人的に描いたイラストを公開したものであって、正規のプロの仕事としての表現ではないし、そういう方法で作品を補足するというやり方は王道ではありません。
しかし当ブログは原作者が提示したひとつの未来をめっちゃ支持します。
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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜後編〜【遊戯王 漫画 原作 DM 考察 感想】
3.テーマの転換「勧善懲悪から、平和主義へ」
「罰ゲーム!」悪人を裁くダークヒーロー
前述の通り、もともとの闇遊戯はダークヒーローであり悪を裁く「正義の番人」でした。
ゲームのルールという見えないパワーで悪人を殴り倒す。それが連載当初の本作のテーマです。
ここでの悪人とは絶対悪であり、同情の余地がないよう徹底的に悪く描かれます。悪ければ悪いほど、そんな悪人の卑劣な横やりで遊戯たちの友情は壊れはしないことの証明になる。主人公が体現していたのは勧善懲悪の物語でした。
「善も悪もない」亡国のファラオ
闇遊戯の設定が変更され「古代エジプトのファラオ」になったことで、当初の「勧善懲悪」路線はガラリと変わりました。
「ファラオの記憶編」において、闇遊戯(アテム)は民を思いやり平和を愛するファラオとして描かれます。しかしその一方で、アテムの父親である先王アクナムカノン治世下でのクル・エルナ村虐殺など為政者の負の側面が強調され、やがてアテム治世下の第18王朝は、虐殺を生き残った復讐者「盗賊王バクラ」の出現により崩壊を始めます。
悪人に報復し裁きをくだす側だった闇遊戯が、今度は報復され裁かれる側になっているのです。盗賊王バクラは、この世には善も悪も無い、ただ自身の正義を「善」と主張し合うだけだと言ってこれまでの闇遊戯の「勧善懲悪」的な正義を否定しました。
原作者の反権力思想や反戦思想が反映されたためか、ファラオとなってからの闇遊戯は「善とはなにか?悪とはなにか?自分は本当に正しいのか?」と迷うように描かれます。
この「視点が変われば正義も変わる、よって善も悪もない」とした上でそれでも平和のために戦う主人公を描く一見奥深いテーマは、「友情」というものに絶対的な「善」属性を与え、一方でそれを踏みにじる者には絶対的な「悪」属性を与えてそれを主人公に倒させてきた原作者自身の作風とは相性が良くありません。当初は勧善懲悪のダークヒーローとして描かれていた闇遊戯の存在意義や当時の作品テーマさえも否定してしまうブーメランのような論法です。
多角的な視点からの描写に成功しているというよりは、単にテーマが散らかっていて、その時の原作者の気分で描きたいと思ったことによってキャラクターたちの立場や主義やコンセプトまでもがコロコロと変わっているように見えるのです。
しかし結果として正統派ヒーロー色が強くなったことで、闇遊戯との別れは爽やかなものになり、物語としての後味は非常に良くなりました。
後に文庫版が出版された際、原作者はあとがきで『千年パズルの中で、悪として融合しようとするゾーク(略)』とコメントしています。この後付けによって実質、当初の闇遊戯はゾークの悪に半分染まっているうえ記憶喪失中だから本来のアテムではない(本来のアテムは一方的に「悪」を決め付けて裁くことはしない)というような意味合いに作品が上書き修正されました。
4.闇遊戯から「墓を守る番人」ポジションを受け継いだマハード
「 番人 VS 盗賊 」
"墓を守る番人もいれば …墓を暴く盗賊もいる"
このシーンが描かれたのは、闇遊戯が実は古代エジプトのファラオだと発覚するよりはるか以前のモンスター・ワールド編。本作がカードバトル中心の長編をやり始めるより前のことです。
注目すべきなのは、この時点で「番人」とは闇遊戯のことを指しており、「盗賊」である闇バクラと敵味方で対のように描かれていたことです。
闇遊戯が「墓を守る番人」だったからこそ『千年アイテムは王墓をあばき財宝を盗みだす罪人を裁くために生みだされた』という設定が最初に描かれたのであり、そのステージである王墓は「盗賊を地獄へいざなう死と闇の遊戯場」なのです。罪人を裁き罰を与える =「罰ゲーム」です。(「遊戯王」という称号が「盗賊王」と対になっており、王墓をめぐる戦いがゲームであるとするなら番人の方が負けた場合も罰ゲームは執行されるため、盗賊である闇バクラにも「罰ゲーム!」という決め台詞があるのは正しいといえる)
『それらは古代の王に仕える魔術師達によって「王墓をあばき財宝を盗みだす罪人」を裁くために生みだされたもの…』
『盗賊にとっては地獄へ誘う死と闇の遊戯場…』
しかし途中で設定が変更され、闇遊戯は古代エジプトのファラオだということになります。つまり「墓を守る番人」ではなく「墓の主」の方。
そこで、空いてしまった「墓を守る番人」ポジションに、あとから据えられたのが神官マハードです。だからこそ彼は「王墓の警護隊長」として登場し、死と闇の遊戯場である王墓で、盗賊王バクラと対峙しなければならなかった。
マハードをとりまく "いびつ" な設定
そもそもブラック・マジシャンは闇遊戯が最も信頼するエースモンスターという設定に途中からなったのだから、そのルーツとされる神官マハードだって(墓とかよりファラオの身辺警護とか、せめて王宮の警護とか)ファラオの右腕の魔術師のような人物像にしないと、なぜ現代で闇遊戯が最も信頼するモンスターが三体の神ではなくブラック・マジシャンなのかイメージが掴みづらいです。
非常に展開を急いでおり、限られたページ数の中で「ブラック・マジシャン誕生」のエピソードと同時に「千年輪を手に入れる盗賊バクラ(現代において千年リングには闇バクラの人格が宿っていることへの布石)」のエピソードも段取り良く消化したかったという意図が見え隠れします。
しかも盗賊を王墓で迎え撃つ(番人VS盗賊)というシチュエーションの方が優先されているため、壁抜けの能力を持つ相手を地下墓地に閉じ込めるというとんでもなく不自然なストーリー展開に…。(この王墓ごと盗賊バクラを吹き飛ばす勢いの自爆特攻作戦のステージは先王アクナムカノンの墓であるため、先王の遺体は別の場所に移されたと説明されている。)
どうせ殺すならその魔力を弟子のマナに譲り渡すとかして(ブラック・マジシャン・ガールの設定でありましたよね……)千年輪を弟子に託していく展開ならまだ同情の余地もあったものを、突然ひとりで盗賊王バクラに戦いを挑み、壁抜けの能力があると発覚したばかりの相手を王墓に閉じ込めようとし、案の定バクラは王墓から脱走、千年輪が奪われ悪用されたせいで、神官アクナディンが闇堕ちしてしまいました。これは作者側のストーリー展開の都合に他なりません。
盗賊王バクラの扱いも相対的に弱く、本来はそれまで闇遊戯が一方的に裁いてきた悪人たちとは違う “(裁く側である闇遊戯と同じように)千年アイテムを持った ” 敵であり海馬やモクバなどのキャラクターよりも格上のライバルとして登場してきたはずの闇バクラ = 盗賊王バクラの存在意義も軽くなっています。
5.タイトルに込められた意味。「遊戯(の)王」から「遊戯(と)王」へ
前述の通り、初めの頃の本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。
「遊戯王」というタイトルは、主人公の遊戯があらゆるゲームに精通し、あらゆるゲームで強く、ゲームで悪人を倒していく姿を王者にたとえたもの。ゲームの王、「遊戯(の)王」です。
やがて本作はカードゲームのみを扱うようになり、「遊戯(の)王」というタイトルが微妙に合わなくなってきます。カードゲームは数あるゲーム(遊戯)の中の一つでしかありません。主人公がゲーム全般の達人ではなくあくまで決闘者(デュエリスト)であり、漫画としてカードゲームだけを専門で扱うならタイトルは決闘王(デュエルおう)の方が相応しいでしょう。
しかも表遊戯と闇遊戯は実は別個のキャラクターで闇遊戯はファラオ(王)だという話しになり、本作の " タイトルと内容のちぐはぐ感 " はいよいよ致命的なものに。
遊戯がゲーム全般の王様的プレイヤーだという概念が主な読者層にほとんど忘れられ、もはや王といったらファラオを連想する、なのに本来の「遊戯」である表遊戯が王(ファラオ)なわけではない。闇遊戯は王(ファラオ)だが本当は「遊戯」ではない。じゃあこのタイトルの「遊戯王」というのはいったい何を表しているのか??
そこで出てきたのが、『遊戯 王』という新たな解釈です。
つまりこのタイトルの「遊戯王」とは、遊戯と、王(ファラオ)、二人の主人公である表遊戯と闇遊戯を表しているのだと。すごい。めちゃくちゃキレイにまとまりました。
このタイトルは、物語を読み進めていくと最後に意味が分かるよう作者によって最初から仕組まれたもの……ではありません。あくまで後付けです。前述の通り、当初の闇遊戯は正義の番人(墓を守る番人)として描かれていたわけで、一番最初の構想段階からファラオ(墓の主)として作られたキャラクターではないことは明白です。(最初にファラオとして登場するためにデザインされたキャラクターはマリク・イシュタールではないかと想像しています。「マリク」はアラビア語で「王」を意味します。)
1999年12月にプレイ・ステーション用ゲーム「封印されし記憶」が発売されているので、遅くとも原作の王国編の終盤あたりかバトル・シティ編の導入部分が描かれた頃には闇遊戯をファラオにする構想が決まっていたでしょう。
本作がカードゲーム中心になったことでどうしようもなくその内容と剥離してしまっていた作品タイトルに「遊戯(と)王」という新たな解釈を吹き込むことで、原作者は見事に最終回をまとめあげました。その手腕とひらめき力には、長年の連載で揉まれ続けた原作者の、プロとしての意地を感じました。
おわり
★前編はこちら★
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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜前編〜【遊戯王 漫画 原作 DM 考察 感想】
1.成長の意味。人格「統合」から、「分離と自立」の物語へ
悪を裁く正義の番人「もう一人の遊戯」
遊戯王の原作マンガが連載を開始した当初、本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。
言うなれば『カイジ』と『必殺仕事人』を足してオカルト要素を融合させたヒーローマンガです。
主人公の武藤遊戯はゲームが好きな大人しい少年ですが、仲間や家族に危害が及ぶと人格が豹変します。そして悪人を相手に危険なゲームをもちかけてボコボコに負かし、敗者に恐ろしい「罰ゲーム」を科して廃人にしてしまう。いわば勧善懲悪のダークヒーローだったのです。
ちょっとした賭け事から本格ボードゲームまで、どんなゲームも遊戯に敵う者はいない。彼はゲームの王様だ!
「遊戯王」というタイトルは元々このような意味合いからきています。
連載当初の本作は「普段は気弱な主人公が悪人の前で豹変して強くなる」ことにカタルシスを覚えさせる構成になっていました。これがあるから普段のやさしい遊戯がマンガとして映え、普段の遊戯が気弱だからこそ豹変した時のギャップが際立つ。
つまり、表の遊戯も、もう一人の遊戯(闇遊戯)も、どちらも正真正銘、武藤遊戯でなければこの話しは成り立たない。
月野うさぎとセーラームーン(プリンセス・セレニティ)が実は全く関係ない別人です、では「美少女戦士セーラームーン」(©︎武内直子)という作品は意味がないのです。
ここで重要なのは、当初、主人公の遊戯は「二つの心を持つ」一人の少年という設定だったことです。
これは厳密な意味での二重人格とは異なります。「1つの体に2人分の人格が存在している」のではなく、「あの人って性格にうらオモテあるよね」みたいな意味での俗にいう二重人格、本人ですら知らない自分の「もう一つの心」がものすごく強調され擬人化されて内に秘められているような状態。一般的に多重人格者はそれぞれの人格が別人を自称しますが、表遊戯も闇遊戯も自分を「武藤遊戯」と思っており、その様に振る舞います。
闇遊戯はごく稀なケースを除いて、表遊戯(自分)を守るために現れるわけではありません。この時点での闇遊戯は表遊戯の内なる強さそのものであり、仲間や家族に危害が及ぶと「よくもオレの(ボクの)大切な人を傷つけたな!」と言って出てくるのです。これは主人公が悪人に報復することの正当性を担保し、ダークヒーローものとして作品を成立させるためにも重要なことです。
「もう一つの心」を受け入れる
最初のころ、周囲の人々は遊戯の「もう一つの心」のことを知らないので「なんか雰囲気が変わったな」などと思いながら接するのですが、表遊戯はだんだんと自分の中の「もう一つの心」の存在に気がつくにつれ『こんなボクを知られたら皆んな離れていってしまうんじゃないか……』と不安を覚えます。そしてDETH-T編の終盤でその不安はピークに。
ここで注目すべきは、表の遊戯はこれを自分自身の問題として苦悩していたことです。自分が何か悪霊に取り憑かれているとか、千年パズルに宿った悪の人格に体を乗っ取られているとかではなく、あくまで自分自身の心の問題としてです。
これは「普段は見せない自分の一面を知っても、他人は自分を受け入れてくれるのか」という普遍的なテーマに通じます。普段は閉ざされたその人の一面を「もう一つの心」として擬人化することで、少年マンガらしい熱く爽やかな表現に成功しています。
DETH-T編を乗り越えて表の遊戯は自分自身と向き合い、「もう一人のボク」を受け入れます。この時はじめて仲間たちは表の遊戯がもう一人の遊戯へと変貌する瞬間を目撃し、それでも「遊戯は遊戯」として主人公を応援するのです。
作品の結末を分けた、大きな方向転換
千年パズルの闇の力について、ストーリー序盤では深くは触れられず、闇遊戯は「千年パズルの力によって武藤遊戯の中から目覚めた、もう一人の遊戯」として描かれていました。
千年パズルについて踏み込んだ内容が初めて描かれたのは、エジプト発掘展を舞台としたVSシャーディー戦です。ここではぼんやりとした象徴的な意味合いながら、千年パズルの真の力と物語の結末の一端が示唆されています。
この少年には表と裏の人格が存在しているが少年はそれに気づいてはいない…
表と裏がひとつになった時こそ「千年パズル」の真の力が目覚める時なのだ!
この表と裏がひとつになるという表現を、「表遊戯と闇遊戯が友情を育んで "相棒" になる」とか抽象的に解釈することはいくらでもできます。しかしそれは既に描かれた結末を知っているからこそ出てくる逆算的な発想です。主人公の成長物語としての本作は、当初は異なる方向性が提示されていました。
つまり、分裂してしまった表の遊戯ともう一人の遊戯(闇遊戯)が一つになり、表でも裏でもないただの遊戯になることこそが物語のゴールだった可能性が非常に高いです。 (最終的には映画DSODみたいな見た目と雰囲気になったのか…?)
上の引用画像は王国編の序盤あたり、80話目でのワンシーンです。もしも最初から「表遊戯と闇遊戯がそれぞれ別人として自立し、別れる」ことを想定して描かれていたのなら、このような描写は絶対に出てこないはずです。だって二人の遊戯が自立しなければならないなら、それ全部が遊戯で、そのままでいいわけがないですよね。この時点では杏子はまだ闇遊戯の正体を知らないから…と解釈すれば確かにつじつまは合いますが、それはあくまで " 後付け " 的な解釈です。このシーンは杏子が遊戯に語りかけると同時に読者への提示でもあるわけですから、少なくとも「それ全部が遊戯」という台詞だけは変更されていなければマンガのストーリーとしておかしい。
つまり、本作は少なくとも王国編の序盤くらいまでの時点では、現在とは別な結末が想定されていたということ。人格の「統合」です。
これは闇遊戯がもともと表遊戯の心の中から出てきた存在で、千年パズルの力はあくまできっかけに過ぎない、どちらも正真正銘「武藤遊戯」であることが前提の話しです。
自分で自分がよく分からない、恐ろしい敵に立ち向かうためには「強い自分」が必要、みんなと仲良くいるには「やさしい自分」のままでいい。そういったバラバラのパズルのピースのような状態にある未熟な心と向き合い、組み上げて、「自分」という1つの完成形に向かうための物語。まだ誰も完成を見たことがないパズルの真の姿こそが本当の「武藤遊戯」です。
しかしご存知の通り、ストーリーが進んでいく途中で闇遊戯の設定は大幅に変更され、彼は「武藤遊戯とはもともと別の存在である、古代エジプトのファラオの魂」であることが明らかになります。下の引用画像はまさに、杏子の心情を借りてこれまでの設定と今後の変更点を読者に説明しているシーンと言えるでしょう。
そこで提示された、また別の方向性。それが本作の最終話に描かれた二人の遊戯の結末、「他者との分離」そして「自立」です。
自分と他人の境界があいまいで自他を切り離せない、他人の心が分からなくて不安になる、自分にはない他人の良さを羨む、他人と離れたくない、そういう未熟な状態から、「自分は自分」「他人がどんな道を選ぼうと、それは他人の選択」という、自立した状態になることがゴール。
これはあくまで、闇遊戯はもともと外からやってきて武藤遊戯の心の中に間借りしている別個な存在だというのが前提です。
「統合」と「自立」。これらは途中でキャラクターの設定が変更されストーリーの方向性が変わったものであり、どちらの状態が上とか下とか、良いとか悪いの話しではありません。
主人公がアイデンティティを確立する成長物語であることに変わりはないのです。
(余談:本作がカードゲーム中心の長編をやり始めると必然的に、もともと敵とのゲームパート担当だった闇遊戯が出ずっぱりになります。何話もかけて1つのデュエルを描くので漫画の構成上、仕方ないのですが、一話完結のスタイルが崩れて表遊戯の出番が激減したことについて原作者自身は「表遊戯が闇遊戯の影に隠れている」と捉えていたようです(構成が悪いのであって、これを問題視するならブラック・マジシャンとかも弟子の影にがっつり隠れていることになるのですが)。表遊戯はもっと前に出なきゃいかん!と原作者が考えたことから、表遊戯が闇遊戯を超える→自立するという結末に至ったことが、その後の本編の流れや文庫版のあとがきで書かれた原作者のコメントなどから推察されます。)
2.ヒロイン杏子との恋の行方
もともと、表遊戯は幼馴染みの杏子のことが好きです。
一方、杏子が恋しているのは闇遊戯です。バーガーワールドで凶悪犯の人質にされてしまった杏子は、自分を助けてくれた名前も姿も分からない人に恋をします。それが闇遊戯、千年パズルの力によって遊戯の心の中から目覚めた「もう一人の遊戯」でした。
最初の時点では杏子が闇遊戯に恋していること自体べつに問題なかったわけです。だって表遊戯も闇遊戯もどっちも「遊戯」だから。どうも最近杏子には好きな人ができたらしい…遊戯は当然ショックですよね。しかし、杏子が恋しているのは実は遊戯なのです。この絶妙なすれ違いの両片思いが良かった。
この杏子の恋心の揺れ動きは、特に異性として意識したこともなかった幼馴染みの意外な一面を知ったことで一気に恋に落ちるという、ラブコメの鉄板とも捉えることができます。
杏子の想いが闇遊戯の方に偏っていること自体が、ストーリーの伏線のようになっていました。表と裏が一つになる過程で、杏子は遊戯の一面のみを見るのではなくその『二面性』を含めて『遊戯は遊戯』としてあらためて好きになり、晴れて結ばれる。当初、原作者はそんなような展開を意識していたのではないでしょうか。
『いいの!遊戯は遊戯じゃない!それは最初は…でも……表とか…もう一人とかなんて関係ないんだよ!それ全部が遊戯なんじゃない!』 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社)
しかし、実は表遊戯と闇遊戯はまったくの別人で、魂から別だという話しになってからは事情が変わってきます。表遊戯と杏子と闇遊戯は恋の三角関係ということになってしまい、大分めんどくさいことになりました。
「闘いの儀」が行われる前夜に杏子はクルーズ船の遊戯の部屋を訪れましたが、出迎えたのは表遊戯だった。さすがに「最後にもう一人の遊戯と話しがしたいから変わって(今私が話したいのはあなたじゃない)」などとは言えず、「本田のお腹の薬を貰いにきた」と嘘までついて、杏子はそのまま部屋を出ます。とても健気です。
アニメ版では少し異なるのですが、杏子は「闘いの儀」の最中もずっと闇遊戯(アテム)を気にかけています。(原作者的にバランスをとりたかったのか、城之内はどちらかというと表遊戯の方を応援している)
このこじれた関係を最後まで上手く方向修正することができなかった結果、杏子は闇遊戯(アテム)に恋心を打ち明けることさえできず、原作本編は終了してしまいました。
★後編に続く★
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M&Wを象徴するキャラクター、ブラック・マジシャンの考察と紹介【遊戯王 アニメ 漫画 原作 DM 感想】
あまりにも有名かつ古株キャラすぎて今更感ありますが、ちょっと突っ込んだところまで書いてみました。 OCGではなく、原作マンガやアニメにおけるキャラクターの考察と紹介です。
- 1.概要。「ブラックマジシャンに似ている、他作品のキャラを思い浮かべてみる」
- 2.戦闘スタイル。「魔法使いが奇術を繰り出して戦うという倒錯」
- 3.外観。「その帽子どうなってんの?」
- 4.ブラック・マジシャンの活躍
- 5.エースの看板
- 6.M&Wを象徴するモンスター
- 7.まとめ
1.概要。「ブラックマジシャンに似ている、他作品のキャラを思い浮かべてみる」
いわずと知れた遊戯王の主人公・武藤遊戯(とくに闇遊戯)のエースモンスター。
ライバルの海馬瀬人は超王道の青眼の白龍(ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン、以下ブルーアイズ)という誰がどう見てもカッコ良くて強そうなモンスターを使う一方で、主
出てきた瞬間一発で魔法を使うキャラだと分かるトンガリ帽子
原作者の卓越したネーミング、デザインセンスもあいまって、ブラック・
2.戦闘スタイル。「 魔法使いが奇術を繰り出して戦うという倒錯」
ブラック・マジシャンは英語圏では名前が異なり DARK MAGICIAN となりますが、英語で奇術師をMagician と呼ぶのは、
3.外観。「その帽子どうなってんの?」
ブラック・マジシャンのデザインてワケわからなくないですか?
これはデザインそのものが洗練されているからに他なりません。
このデザインは真正面よりも真横やななめ側から見た時に、
これまで、ブラック・
4.ブラック・マジシャンの活躍
アニメしか見たことのない方は意外に思われるかもしれませんが、
ブラック・マジシャンが本格的に活躍し始めたの
明確にエースモンスターとして扱われだしたのは王国編よりさらに後のバトル・シティ編導入部分からになります。
DEATH-T編のラストで登場したエクゾディアのカードは、一つ一つの力は弱くとも、バラバラのピースが一つに合わさった時それは何よりも強い力になる=「友との結束の力」
5.エースの看板
もともと原作でのブラック・マジシャンは「エース」や「切り札」
とはいえ、本格的にブラック・
結論を言うと、
遊戯VS海馬…永遠に勝てないライバル?
ブラック・マジシャンがブルーアイズのライバルと言われるのはマ
攻撃力3000のブルーアイズに対し、ブラック・マジシャンは攻
基本的に、エースモンスター同士の正面衝突になればブラック・マジシャンに勝ち目はあり
ブラック・マジシャンは、"ただ攻撃力の高いモンスターを出せばいいというものではない" というM&Wの醍醐味てきな部分を象徴するモンスターです。そこには、攻撃力で劣るモンスターが魔法・ 罠とのコンボを駆使して自身より攻撃力の高いモンスターを倒していくという下克上のカタルシスがあります。しかし同時に、高攻撃力モンスターに上から殴られなすすべなくやられてしまう悲哀をも背
そして海馬は最強モンスターであるブルーアイズを完璧に使いこなし実力は闇遊戯と拮抗していますが
この絶妙なパワーバランスは、本編において闇遊戯と海馬を対等な
上記のスタンスはファラオの記憶編においても頑なに貫か
魔法使いの弟子「ブラック・マジシャン・ガール」
デュエルに参加できないヒロインの代わりに、バトル・シティ編から
時期を同じくしてデュエルのルールが変更され、レベル7以上のモ
これらが重なった結果、ブラック・マジシャンは出番が激減。皮肉
それまでブラック・マジシャンが担ってきた、ザコを掃討する役割、中間の見せ場は全てブラック・マジシャン・ガールに移譲されていきます。普通であればここでエースが交代する流れですが、しかしそこは伝
そこで編集と原作者は、ブラック・マジシャンを出す時には人気キ
キャラクター商売としては当然のことながら、この人気至上主義は
こうした扱いの差は視聴者側にも当然伝わりますし、その後の人気
切り札にして最強のしもべ
闇遊戯はブラック・マジシャンについて、よく「俺の切り札にして
ストーリー上の意味合いを考えるなら、サイレント・マジシャンと相討ちも取れずあっけなく散ったブラック・マジシャンが最後にまた出てくる展
し
もちろん、カードゲームとしての面白さ、プレイングの問題(ただ
しかし遊戯王って元々はカードゲームを描くための漫画ではなく、ゲームを通してキャラクターの背景や心情を描く漫画、デュエルの戦略等はあくまでストーリーを描写するための小道具だ
オシリスの天空竜が闘いの儀などでラストを飾ること自体なんらおかしくないと思うのですが、『自分とカードを信頼し合う』というようなフレーズでエースの看板を背負わせてきたブラック・マジシャンの、肝心の決闘シーンでの活躍がそこまでパッとしたものではない、闇遊戯とカードたちとの絆や信頼を象徴する役割を果たせてもいない(そして結局は蹴散らされて終わる。はっきり言って、表遊戯のサイレント・マジシャンを引き立たせるお膳立て役で終わっている)のに、ラストシーンで大型のいかにも強そうな “ 映える ” モンスターを登場させることで強引に展開を締めるのは、マンガとして筋の通った描き方ではないと思います。(原作でブラック・マジシャンが象徴的な役割をきちんと果たしていたのはvs奇術師パンドラ戦と、ブラック・パラディンの回くらい…?)
次作アニメシリーズのGX最終回、十代とのデュエルでブラック・
海馬は神を生贄にしてまで自身のエースモンスターをあえて召喚するという意地とプライドを見せた一方で、カードと信頼し合うとか友の力とかを決闘に持ち出す闇遊戯は魂のエースカードを召喚するかに思わせたタイミングであえて神を召喚するという、ここでも奇妙な逆転現象が起きてしまいました。
人気至上主義
ストーリーの進行に絡んで、エースモンスター(フェイバリットカード)が二枚看板になっていく流れはよくあります。同じ遊戯王シリーズの十代ならネオスとユベル、万丈目ならアームド・ドラゴンとおジャマなどで、これらはストーリー上必然性のあるものとして筋が通っているため違和感を持つファンはほぼいないと思います。
商業的には主人公は一つのモンスターに固執せず色々なモンスター
しかし結果として、ブラック・マジシャンというエースモンスター
ブラック・マジシャンはエースを名乗ってはいるけど、実質的な中身が100%完全に伴っているかと聞かれたら、私は完全に自信を持ってもちろん!と主張することはできないです。
原作者含め、製作側がそこまで真剣にこのキャラクターを立てていないというか、主にはアリバイ的な台詞での説明で済まされる傾向にあります。ようやく描かれた神官セトとファラオの決闘で白き龍は神と同等かそれ以上の扱いを受ける一方、黒き魔術師はあっけなく蹴散らされ単なる壁モンスターのような扱いで、最後は白き龍(=ブルーアイズ)のいわば擬人化キャラクターであるキサラとかがメインキャラの仕事をして終わり。アニメオリジナル回では闇遊戯のデッキマスターをあえてクリボーにしてみたり、遊戯たちにコンタクトを取ってくる橋渡し役がなぜかブラック・マジシャン・ガールやマナだったりと……。そんなだったらもうブラック・マジシャンにエースとかの看板をむりに付けずに「闇遊戯が特に主力で使うモンスターたちの中の一体で、一番の古株(どれをエースとして挙げるかは好み)」くらいのままにしておいた方がよかったような…?(異論はめっちゃ認めます…)
「闇遊戯が最も信頼するモンスター」という設定も、そういう設定の説明だけ、あるいはブラック・マジシャンは忠誠心の強いキャラクターであるという一方向の描写で終わっています。そのルーツとしてファラオの記憶編では「神官マハード」というキャ
しかし、おそらく原作者にはその様に描かれていた心当たりなどなく、呑気にもキサラと神官セトのくだりが心残りだとか言っている。
若干キャラクターへのディスみたいになってしまい心苦しいのです
6.M&Wを象徴するモンスター
遊戯王のカードゲームを指す名称としては、アニメやOCGで広く
アニメやOCGしか馴染みのない方が最初にこの名称を聞いたら、
“プレイヤーはお互い魔法使いっていう設定”
つまり、「M&W(マジック&ウィザーズ)」のウィザーズとはモンスターではなく、対戦し
この最初期のM&Wにはモンスター効果、つまりモンスター自身が
もちろんプレイヤーが魔法使いであるといった設定は今では自然消
はい、「ブラック・マジシャン」デッキです。
デッキに名を冠するモンスターが通常モンスターであるという点は
最近のOCGでは専用の魔法カード「師弟の絆」が新たに登場し、
魔法カードと魔法使い族モンスター達とのコンボで相手を絡め取る
7.まとめ
遊戯王がカードゲーム中心のマンガとして舵を切ったのは、読者人
しかし、そのカードゲームが中心になる以前から作品の根底を貫い
そして、ブルーアイズでもなく、レッドアイズでもなく、単騎では
おわり
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遊戯王 高橋和希インスタ炎上騒動で思ったこと。独裁政権に未来は暗黒次元!←これマハードに言わせる?
【NARUTO -ナルト-】努力の天才ロック・リーを全力で考察【BORUTO -ボルト- 登場記念!】
NARUTOが全盛だった頃、私はちょうど中学生。
推しメン(当時はこんな単語すらなかった)
はい、努力の天才ロック・リーです。
(右:NARUTO 20巻 180話、左:アニメNARUTO -ナルト- より)
考察などとタイトルにうたってありますが、
こんなこと考えてる奴もいるのね〜
- 概要。「努力の天才」ロック・リー
- 外観。「ダサいのにカッコいい!」至高のギャップ燃え
- ロック・リーのモデルとなった人々
- キャラクターコンセプト。「スーパーサイヤ人へのアンチテーゼ? 」
- 5.戦闘スタイル。「忍術の使えない忍者」
- 6.内面の描写。「努力は必ずしも報われない?」
概要。「努力の天才」ロック・リー
忍者のマンガなのに忍術の類を一切使わず殴る蹴るだけで戦うとい
ギリギリ感あふれる熱血ギャグと「
2012年には彼を主人公としたスピンオフ作品までリリースされ
(ロック・リー忍伝 DVD 第17巻 より)
外観。「ダサいのにカッコいい!」至高のギャップ燃え
オカッパ + まゆ毛 + まん丸の目 という3つの要素がアイコンとして秀逸で、
(アニメNARUTO -ナルト- より)
↑カエルのような丸い目は『忍空』の風助(※1)
一人だけ画風がぜんぜん違うというか、
(僕のヒーローアカデミア1巻1話、7話より)
なのにサスケをぶっ飛ばすくらい強いときて、
(NARUTO 5巻 37話より)
古典的な美形を表すマンガ記号は「切れ長の目」、
(アニメNARUTO -ナルト- より)
(NARUTO 5巻 37話より)
ただ、その記号的さゆえか、ロック・
↑ 戦闘中の表情は真剣そのもの。(アニメ NARUTO疾風伝 より)
↑ 躍動感あふれる空中での戦闘シーン。ふつうにカッコいいデザインに見えます。(NARUTO 5巻 37話より)
普段は重たいヘルメットのようなオカッパ頭が激しい動きで振り乱
(アニメ NARUTO -ナルト- より)
(NARUTO 24巻 209話 より)
何が凄いって、分かりやすい外観の変化(髪や目の色が変わる等)
↑
しかも話が進むにつれ実際の性格は誠実、謙虚、弱い者に優しい、
(NARUTO 6巻 52話 より)
ロック・リーの魅力の80%以上は、
ロック・リーのモデルとなった人々
ブルース・リー
ロック・リーという名前は、伝説の香港カンフー映画スター「ブルース・リー(李小龍:リー・シャオロン)」のもじりと思われます。「ブルース」
(映画「燃えよドラゴン」より)
↑↓(映画「死亡遊戯」より)
↑ ロック・
彼が日々こなしていたトレーニングメニューというのが、
トンデモな逸話も多く、
リアルロック・リーというか、ブルース・
ジャッキー・チェン
ロック・リーの「
↑ ジャッキーが腰の後ろに左手を当てているのは、チャイナ服の長い前垂れを左手でたくし上げているため。(左: 映画「酔拳2」、右: NARUTO10巻82話 より)
↑ 酔拳の構え(左上)。逆立ちしたまま両足で蹴りまくるジャッキー(左下)。NARUTOでも似たようなシーンが…。(左側:映画「酔拳2」、右側: NARUTO10巻82話 より)
映画『酔拳2』
ブルース・リーだけどジャッキーチェン?
ロック・
名前の由来ともなったブルース・リーは、目にも止まらぬ(
ブルースはガチンコバトルの似合う熱い役柄ながらも、
↑ 基本、真顔なブルース・リー。敵を挑発するような微笑が印象的。(映画「死亡遊戯」より)
一方のジャッキー・チェンは真剣に戦っているシーンですら可笑しく「てんやわんや」という言葉がまさにピッタリ。コミカルなお笑いノリの似合うチャーミングな俳優で、
ただし戦い方はリーと真逆で、ジャッキーは1対多数がもっぱらの "環境を武器化" するスタイルです。椅子、ロープ、道ばたの木、
個人的に、ロック・リーの息子とされるメタル・リーはジャッキー・チェン寄りの、ドタバタ乱戦が得意な実践的武術・ケンカ殺法スタイルでも面白いかも?……と、チラッと思いました。
キャラクターコンセプト。「スーパーサイヤ人へのアンチテーゼ? 」
ロック・
ここで原作者・岸本斉史先生の「
(NARUTO 10巻 85番 より)
髪は逆立ち、目つきは鋭く変わって、
明らかに「スーパーサイヤ人」へのパロディ・オマージュです。
(左: NARUTO 10巻 85話、右: ドラゴンボール 34巻 408話 より)
エリート一族の血を引いているとか生まれながらの強さを持ってい
ここに作者のマンガに対する思いというか、 「
5.戦闘スタイル。「忍術の使えない忍者」
忍術・幻術を一切使わない
ロック・リーの個性をなにより強固なものにしているのが、「
作中のどこを見回しても「忍術・幻術を一切使わない」
(NARUTO 10巻 82話 より)
またストーリー上、「砂の絶対防御で触れることすら出来ない」「
(NARUTO 10巻 82話 より)
(NARUTO 24巻 211話 より)
どんな術を使う敵が相手でも、彼は素拳による直接攻撃のみ(※3)
しかもベースに熱血ギャグがあり、
多分ですが、NARUTOを読んでいる人でロック・
「木ノ葉流体術」と「酔拳」
ブルース・リーやジャッキー・チェン等へのパロディをみると、
設定上では、ロック・リーの体術は「木ノ葉流体術」
君麻呂と戦った際には「直線的すぎる。」と評されましたが、
(NARUTO 24巻 210話 より)
そこで、「天性の酔拳使い」という追加設定がロック・
(NARUTO 24巻 210話 より)
ブルース・リーなのにジャッキー・チェンという洒落もきいて、
↑ この扉絵は布石か…?酔ったガイ先生に酒を勧められ断っている?
もともとロック・リーは、捨て身技の裏蓮華を使わずとも我愛羅の砂のオート防御をかいくぐれ
↑ サスケにかけようとした技は「表蓮華」です。裏の方はネジにとっておくためか。(NARUTO 5巻 37話 より)
(NARUTO 10巻 85話 より)
しかし、
結局のところ、
ロック・リーの強さの限界、
マンガ的には、強い敵に遭遇→
(NARUTO 10巻 87話 より)
だからこそ「酔拳」という新しい特技は、
彼の代から木ノ葉流体術は「酔拳」
チャクラ練れないのに、どうやって水面を歩いたり壁にはり付いたりしてるの?? という議論
作中でのロック・リーは、水面を歩いたり「八門遁甲」
(アニメ NARUTO -ナルト- より)
(NARUTO 10巻 90話より)
よく誤解されていますが、「八門遁甲」そのものがチャクラを必要とする技です。つまり、↑ の解説でいうところの "例外" です。
忍術も幻術も使えない = チャクラが使えない という単純な結びつけは誤りです。
作中の解説では、"脳のリミッター・
(NARUTO 6巻 52話 より)
(NARUTO 10巻 85話 より)
もしロック・リーがチャクラを練れないとしたら、八門遁甲の体内門を開くことも、
ここからは完全に妄想の域ですが、、、
(NARUTO 69巻 668話 より)
6.内面の描写。「努力は必ずしも報われない?」
ロック・
しかしその道のりはというと、負ける→修行→強くなる→勝つ、
(NARUTO 10巻 87話 より)
中忍試験のトーナメント戦にて、
ケガで戦線離脱している間にもライバル達はどんどん力をつけ、
(NARUTO 13巻 112話)
そのうえサスケには相手の動きを見極める「写輪眼」があるので、
(NARUTO 13巻 114話 より)
しかもさらに悪いことには、第一回戦でナルトが「日向ネジ」
(NARUTO 13巻 109話 より)
ナルトが純粋に力でネジを上回ったというよりは裏をかいての作戦
ネジを倒すための切り札として習得した「裏蓮華」
ここまで「努力」というものを徹底的に打ちのめされ、
(NARUTO 13巻 110話 より)
ロック・リーは強いキャラであると同時に、
彼の毎回の役割はメインキャラが活躍する前の"前座"
うずまきナルトとロック・
(NARUTO 10巻 87話 より)
(NARUTO 9巻 81話 より)
ナルトは「主人公はかくあるべし」の部分を担当し、
(NARUTO 10巻 87話 より)
ロック・
「努力の天才」に血筋は関係ないからです。
どこの家の誰の息子だろうが、
才能はなくとも努力して、
主人公として勝利をつかむ運命にあるナルトには決して振れない役
(NARUTO 69巻 617話 より)
マンガの連載がどんな引き延ばしにあい、
その輝きは永遠です!
次回
【考察2】努力の天才ロック・リーが"裏主人公"であるわけ……へ続く
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脚注
※1: NINKU -忍空-(桐山 光侍)
90年代を代表する少年ジャンプの看板作品。
(アニメ NINKU -忍空- より)
「忍空」とは、「空手」の力強さと「忍者」の素早さ・
※2:構えポーズの由来
ジャッキー映画の中で男性が着ているチャイナ服の長い前垂れの部分がありますね?戦闘になると、あの前たれを足で跳ね上げながら片手でキャッチし、素早く腰の後ろへたくし上げ、そのまま押さえておきます。そしてもう片方の手を前にかざし、低く構えます。おそらくこれがリーの構えポーズの元です。超カッコいいです。とくに映画『酔拳2』
(映画「酔拳2」 より)
※3:素拳による直接攻撃のみで戦う
TVアニメや映画などのメディアミックス作品ではロック・リーが手裏剣やクナイなどの投てきアイテムを放つシーン、ヌンチャクや棍で戦うシーンが描かれましたが、原作ではほぼ皆無。ただカブトの持っていたデータなどから、忍具を扱う高い技術を持っていることだけが示唆されています。
(NARUTO 5巻 39話 より)
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【ボルト BORUTO ネタバレ感想】5話 父親に不正がバレて1回休み。ボルト起死回生なるか…?!【ナルト NARUTO】
※この記事の画像は、すべて週刊少年ジャンプ『BORUTO』および、同誌『NARUTO』より引用したものです。
コミカライズ版 BORUTO(ボルト)第5話の感想・考察です。
「
「ぶっちゃけ作画どんな感じなん??」
という方向けの内容となっております!
今回の扉絵はこちら!
ボルトの不正がついにバレた…!
相変わらず作画はキレキレで素晴らしい!池本先生の絵ってマンガ絵と写実っぽさのバランスがちょうど良いん
↑ 本当に「あぁ〜あ…」って顔の黒ツチ。なんか色っぽい。
↑ 遠慮とか謙遜じゃなくガチでめんどくさそうなシカダイ。
↑ 意外と表情豊かなサラダ。
ストーリーとしては映画の筋書き通りで、ボルトの科学忍具使用がバレて失格扱いになり、会場は「えぇー…
審判に見つかるのではなく、あえて父親であるナルトから直接「お前は失格だ。」とやることで、
↑ 父親自らの手で、忍者の証である額当てを外されます。これはキツイ…!
各里の影たちや同期の仲間、家族、大勢の観客の前で、
この時点で、科学忍具 = 怠惰の象徴 → 修行して身につけた本当の実力こそが正義という構造が見えてくるわけですが……
いきなり敵ボス登場!中忍試験は大パニック!
ここで映画でのボスキャラが登場!
ボルトにとってはニッチもサッチもいかない気まずすぎる状況をぶ
↑ なにげにシカダイをかばっているロック・リー。
ダルイのツッコミがいちいち的確で面白いww 一発で意思疎通する我愛羅
ここで、
サクラが崩れ落ちてくる天井を粉砕し、降りそそぐ瓦礫をテマリの風遁で吹き飛ばします。見事な連携プレー!テマリさんの生足がまぶしいっス。
よく見ると、サクラの殴り方が映画とは微妙に違います。彼女の「怪力」は精密にコントロールされたチャクラを一点集中し拳から放出するもので、直接殴っているわけではないことが分かりやすい描写ですね。サクラの手はきっと柔らかいでしょう!!
↑ サクラの険しい表情がNARUTO本編よりぐっと大人っぽい。
また、映画にはなかったシーンも追加されてました!
↑ よく見ると、ヨド(女の子の方)とアラヤ(お面かぶってる方)が前へ出ようとするシンキに続こうとしています。やはりリーダー格はシンキか。
マンガ版で『シンキの義理の父親が我愛羅』
我愛羅があまり耳慣れないような単語を使ってますが、「
NARUTO世界での "忍" はある種の軍事組織のように描かれてますから、
で、待ってましたのこのシーン!!
サスケがカッコいいのは言わずもがなですが、
サスケは少しとっぽい印象になりました。
科学忍具はやっぱり "悪モノ"?
↑ サスケの表情がいちいち渋くて痺れます。
まあ要するに科学忍具のことをも、暗に批判しているわけです。
う〜んなんだかなあ…
↑ 「ベイマックス(ウォルト・ディズニー)」はアメコミヒーロー映画。主人公の少年ヒロやその仲間達は全員重度の科学オタクで、自らの発明品を武器に悪と戦う。(画像は公式サイトより引用)
科学は人間を助けてくれるもので、いまや我々の良き友人です。
今は科学の悪い側面を描いた作品であっても、悪と決めつけるよりかは、一歩間違えば悪にもなるから過信はすんなよ!と警鐘を鳴らすものが多いですよね
つまり BORUTO って、時代の流れに思いっきり逆行しちゃってるんですよね……
新しい道具や技術にどんどん順応して使いこなして、ものごとを精神論でとらえず合理的に処理しようとする感覚に関しては、今の若い世代の方が遥かに進んでます。そしてこれからはおそらく、そちらが主流になります。そんな時代の流れに、BORUTO のテーマ性は完全に逆行してしまってるんです。
いや…もちろんその、言いたいことは分かるんですよ。。自分の手も動かさず、努力したり本気になって頑張ることを避けて、便利な力に逃げちゃいけないよ。というメッセージなんですよね。それ自体はすごく良いんです。あえて時代に逆行するテーマを描くことで、利便性ばかりを追い求める現在の風潮に一石を投じようとする狙いもおそらくあったと思います。岸本先生のそういう精神が、連載当初から大好きです。
ただ、本来なら良い面悪い面の両方があるはずの『便利な道具』をほとんど頭ごなしに糾弾しているので、ものすごく偏ったテーマに見えます。問題なのはテーマそのものというより、描写の方法です。
「科学忍具」という小道具の描かれ方、敵ボスの能力の露骨さ、
「そんなもん本物の実力じゃねえ!」と糾弾するんではなくて、これが例えば「科学忍具は下忍にはひたすら脅威、上忍クラス相手にぶっぱは通用しない。その性質上、中忍試験では禁止しているが実戦で使いこなせれば戦術兵器として有用」くらいの中立的な扱いだったら、もっと描写が変わってたんじゃないでしょうか……?
もっと言えば、尾獣(人柱力)の力を "悪しきモノ" として糾弾することは簡単で、
尾獣は特定の人しか持てませんが、科学忍具は誰でも持てます(力の規模の違いこそあれ)。
取り方によっては、尾獣とか血継限界とか八門遁甲とか、
「科学忍具」というアイディア自体はすごく画期的なので、このまま単なるチートアイテム扱いで終わったら純粋にもったいないです。
…というのはごくごく個人的な妄想です。
人それぞれの考え方や好みにもよりますしね!
火影ナルト、ついに本領発揮!!
やっぱり、ナルトの王道展開は熱いです!!
子供たちをサスケに託し、覚悟を決めたように微笑むナルト。
もはやツーカーの2人。サスケも、ナルトの覚悟を感じ取ったようです。ボルトは動揺が隠せませんが、サラダを背後にしっかりかばってます。
たぶん、ここでナルトはいったん退場、
今後のストーリーは……?
ここからは完全に私の妄想ですが、木ノ葉、砂、
みたいな感じでしょうか?!?!
いやいやいや……。
いきなり混成チームとかは無いだろうなあ…。
シノやテンテンやキバには子供はいないんだろうけど、せめて犬塚一族や油女一族出身の新人下忍のキャラとか、
今回はごめんなさい!
いろいろ書きましたが、
オリジナルキャラのカワキは登場してすらいないし、
これからも変わらず、
個人的にツボった作画まとめ
映画よりもスマートな印象のロック・リー。池本幹雄の卓越した作画センスとファッション感覚によって、何ともいえないツナギのようだった衣装がブルース・リーのめちゃカッコ良いトラックスーツに生まれ変わりました。「袖、破れてる…」→「切りっぱなしデザインおしゃれ」ぐらい印象が違って見えます。
そしてなんと、ナルトの呼びかけが「ゲジマユ!」ではなく「リー!」と名前呼びに。(あれ?映画もだっけ?)ナルトも大人になったんですね。よかったよいきなり「ロック!」とか言い出さなくて。
シーンがいいですよね…。「ちゃんと説教されてたら…」というボルトの悲痛な叫びは、本当は構ってほしい!!自分を見てほしい!!という思いの裏返しですね。
映画を観てたときは正直パッとしないデザインの敵キャラと思いましたが、マンガ本編で見ると表情や立ち方のアングル等もあいまってか神秘的にすら見えます。
シカマルは NARUTO 本編よりもこの歳とった姿の方が断然イケメンに見えるのって単なる個人的な趣味の問題なんでしょうか。モモシキの表情にも貫禄があります。
科学忍具のチャクラをモモシキに吸収させてしまったことに責任を感じるボルト。今度は道具に頼らず、たった1人ですが自分で出した影分身でサラダをかばいます。健気です。
このマンガの女性キャラは表情が凛々しいというか強くて、実に良いですね!!ヒナタはNARUTO本編よりこっちの方が個人的に好みです。ひまわりちゃん可愛いよ…。急成長して誰かとスリ-マンセル組んでくんねえかな…。番外編であんなに強かったし。
映画では表情の変化にやや乏しかったミツキ。マンガ版でもひょうひょうとした雰囲気は変わらないものの、人間味のあるリアクションが増えました。イケメンですね。
ん?!!
あれ、こないだチラッと出てきたメタル・リー。敬語喋っとるやん!!!マンガでは確かまだ敬語で喋るシーンは描かれてない。読者からオリジナルキャラクターのアイディアを募る企画ページのやつですけど、コレは企画ページのライターが適当に描いたやつなのか、ちゃんと脚本家のセリフに基づいてるのか…?
メタル・リーは相手をみて敬語とタメ語を使い分けるタイプか、独り言とか頭の中だけタメ語で考えてるタイプか。まあロック・リーも最初のセリフなんて「おいおいおい聞いたかよ」とかでしたからね。すぐ敬語になったけど、音忍とか敵にはけっこう威嚇的な喋り方をしてたし、そのうち頭の中まで敬語で独りごと言うキャラになったかと思えば、最終回近くの回想シーンではネジとふつうにタメ語で会話してたり。この系統のキャラは口調にバラつきがありそうなので何気に楽しみです。笑
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