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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜後編〜【遊戯王 漫画 原作 DM 考察 感想】

 

 

3.テーマの転換「勧善懲悪から、平和主義へ」

 

「罰ゲーム!」悪人を裁くダークヒーロー

前述の通り、もともとの闇遊戯はダークヒーローであり悪を裁く「正義の番人」でした。
ゲームのルールという見えないパワーで悪人を殴り倒す。それが連載当初の本作のテーマです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ここでの悪人とは絶対悪であり、同情の余地がないよう徹底的に悪く描かれます。悪ければ悪いほど、そんな悪人の卑劣な横やりで遊戯たちの友情は壊れはしないことの証明になる。主人公が体現していたのは勧善懲悪の物語でした。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

「善も悪もない」亡国のファラオ

闇遊戯の設定が変更され古代エジプトのファラオ」になったことで、当初の「勧善懲悪」路線はガラリと変わりました。

「ファラオの記憶編」において、闇遊戯(アテム)は民を思いやり平和を愛するファラオとして描かれます。しかしその一方で、アテムの父親である先王アクナムカノン治世下でのクル・エルナ村虐殺など為政者の負の側面が強調され、やがてアテム治世下の第18王朝は、虐殺を生き残った復讐者「盗賊王バクラ」の出現により崩壊を始めます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

悪人に報復し裁きをくだす側だった闇遊戯が、今度は報復され裁かれる側になっているのです。盗賊王バクラは、この世には善も悪も無い、ただ自身の正義を「善」と主張し合うだけだと言ってこれまでの闇遊戯の「勧善懲悪」的な正義を否定しました。

原作者の反権力思想や反戦思想が反映されたためか、ファラオとなってからの闇遊戯は「善とはなにか?悪とはなにか?自分は本当に正しいのか?」と迷うように描かれます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この「視点が変われば正義も変わる、よって善も悪もない」とした上でそれでも平和のために戦う主人公を描く一見奥深いテーマは、「友情」というものに絶対的な「善」属性を与え、一方でそれを踏みにじる者には絶対的な「悪」属性を与えてそれを主人公に倒させてきた原作者自身の作風とは相性が良くありません。当初は勧善懲悪のダークヒーローとして描かれていた闇遊戯の存在意義や当時の作品テーマさえも否定してしまうブーメランのような論法です。

多角的な視点からの描写に成功しているというよりは、単にテーマが散らかっていて、その時の原作者の気分で描きたいと思ったことによってキャラクターたちの立場や主義やコンセプトまでもがコロコロと変わっているように見えるのです。

しかし結果として正統派ヒーロー色が強くなったことで、闇遊戯との別れは爽やかなものになり、物語としての後味は非常に良くなりました。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

後に文庫版が出版された際、原作者はあとがきで『千年パズルの中で、悪として融合しようとするゾーク(略)』とコメントしています。この後付けによって実質、当初の闇遊戯はゾークの悪に半分染まっているうえ記憶喪失中だから本来のアテムではない(本来のアテムは一方的に「悪」を決め付けて裁くことはしない)というような意味合いに作品が上書き修正されました。

 

4.闇遊戯から「墓を守る番人」ポジションを受け継いだマハード

 

「  番人 VS 盗賊  」 

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

"墓を守る番人もいれば …墓を暴く盗賊もいる"

このシーンが描かれたのは、闇遊戯が実は古代エジプトのファラオだと発覚するよりはるか以前のモンスター・ワールド編。本作がカードバトル中心の長編をやり始めるより前のことです。

注目すべきなのは、この時点で「番人」とは闇遊戯のことを指しており、「盗賊」である闇バクラと敵味方で対のように描かれていたことです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇遊戯が「墓を守る番人」だったからこそ『千年アイテムは王墓をあばき財宝を盗みだす罪人を裁くために生みだされた』という設定が最初に描かれたのであり、そのステージである王墓は盗賊を地獄へいざなう死と闇の遊戯なのです。罪人を裁き罰を与える =罰ゲーム」です。(「遊戯王」という称号が「盗賊王」と対になっており、王墓をめぐる戦いがゲームであるとするなら番人の方が負けた場合も罰ゲームは執行されるため、盗賊である闇バクラにも「罰ゲーム!」という決め台詞があるのは正しいといえる)

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それらは古代の王に仕える魔術師達によって「王墓をあばき財宝を盗みだす罪人」を裁くために生みだされたもの…

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『盗賊にとっては地獄へ誘う死と闇の遊戯

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし途中で設定が変更され、闇遊戯は古代エジプトのファラオだということになります。つまり「墓を守る番人」ではなく「墓の主」の方。

そこで、空いてしまった「墓を守る番人」ポジションに、あとから据えられたのが神官マハードです。だからこそ彼は「王墓の警護隊長」として登場し、死と闇の遊戯場である王墓で、盗賊王バクラと対峙しなければならなかった。

 


 マハードをとりまく "いびつ" な設定

そもそもブラック・マジシャンは闇遊戯が最も信頼するエースモンスターという設定に途中からなったのだから、そのルーツとされる神官マハードだって(墓とかよりファラオの身辺警護とか、せめて王宮の警護とか)ファラオの右腕の魔術師のような人物像にしないと、なぜ現代で闇遊戯が最も信頼するモンスターが三体の神ではなくブラック・マジシャンなのかイメージが掴みづらいです。

非常に展開を急いでおり、限られたページ数の中で「ブラック・マジシャン誕生」のエピソードと同時に「千年輪を手に入れる盗賊バクラ(現代において千年リングには闇バクラの人格が宿っていることへの布石)」のエピソードも段取り良く消化したかったという意図が見え隠れします。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも盗賊を王墓で迎え撃つ(番人VS盗賊)というシチュエーションの方が優先されているため、壁抜けの能力を持つ相手を地下墓地に閉じ込めるというとんでもなく不自然なストーリー展開に…。この王墓ごと盗賊バクラを吹き飛ばす勢いの自爆特攻作戦のステージは先王アクナムカノンの墓であるため、先王の遺体は別の場所に移されたと説明されている。)

どうせ殺すならその魔力を弟子のマナに譲り渡すとかして(ブラック・マジシャン・ガールの設定でありましたよね……)千年輪を弟子に託していく展開ならまだ同情の余地もあったものを、突然ひとりで盗賊王バクラに戦いを挑み、壁抜けの能力があると発覚したばかりの相手を王墓に閉じ込めようとし、案の定バクラは王墓から脱走、千年輪が奪われ悪用されたせいで、神官アクナディンが闇堕ちしてしまいました。これは作者側のストーリー展開の都合に他なりません。

盗賊王バクラの扱いも相対的に弱く、本来はそれまで闇遊戯が一方的に裁いてきた悪人たちとは違う  “(裁く側である闇遊戯と同じように)千年アイテムを持った ” 敵であり海馬やモクバなどのキャラクターよりも格上のライバルとして登場してきたはずの闇バクラ = 盗賊王バクラの存在意義も軽くなっています。

 


5.タイトルに込められた意味。「遊戯(の)王」から「遊戯(と)王」へ


前述の通り、初めの頃の本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。

遊戯王というタイトルは、主人公の遊戯があらゆるゲームに精通し、あらゆるゲームで強く、ゲームで悪人を倒していく姿を王者にたとえたもの。ゲームの王、「遊戯(の)王」です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

やがて本作はカードゲームのみを扱うようになり、「遊戯(の)王」というタイトルが微妙に合わなくなってきます。カードゲームは数あるゲーム(遊戯)の中の一つでしかありません。主人公がゲーム全般の達人ではなくあくまで決闘者(デュエリストであり、漫画としてカードゲームだけを専門で扱うならタイトルは決闘王(デュエルおう)の方が相応しいでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも表遊戯と闇遊戯は実は別個のキャラクターで闇遊戯はファラオ(王)だという話しになり、本作の  " タイトルと内容のちぐはぐ感 "  はいよいよ致命的なものに。

遊戯がゲーム全般の王様的プレイヤーだという概念が主な読者層にほとんど忘れられ、もはや王といったらファラオを連想する、なのに本来の「遊戯」である表遊戯が王(ファラオ)なわけではない闇遊戯は王(ファラオ)だが本当は「遊戯」ではないじゃあこのタイトルの「遊戯王」というのはいったい何を表しているのか??

そこで出てきたのが、『遊戯 王』という新たな解釈です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまりこのタイトルの遊戯王」とは、遊戯と、王(ファラオ)、二人の主人公である表遊戯と闇遊戯を表しているのだと。すごい。めちゃくちゃキレイにまとまりました。

このタイトルは、物語を読み進めていくと最後に意味が分かるよう作者によって最初から仕組まれたもの……ではありません。あくまで後付けです。前述の通り、当初の闇遊戯は正義の番人(墓を守る番人)として描かれていたわけで、一番最初の構想段階からファラオ(墓の主)として作られたキャラクターではないことは明白です。(最初にファラオとして登場するためにデザインされたキャラクターはマリク・イシュタールではないかと想像しています。「マリク」はアラビア語で「王」を意味します。)

1999年12月にプレイ・ステーション用ゲーム「封印されし記憶」が発売されているので、遅くとも原作の王国編の終盤あたりかバトル・シティ編の導入部分が描かれた頃には闇遊戯をファラオにする構想が決まっていたでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

本作がカードゲーム中心になったことでどうしようもなくその内容と剥離してしまっていた作品タイトルに「遊戯(と)王」という新たな解釈を吹き込むことで、原作者は見事に最終回をまとめあげました。その手腕とひらめき力には、長年の連載で揉まれ続けた原作者の、プロとしての意地を感じました。

おわり

★前編はこちら★

rootm.hatenablog.com

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