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ブラマジ本体の攻撃力は200とかいう暴論に対するマジレス

 

この記事は、ひと昔前に流行った「ブラック・マジシャン本体のステータスは攻撃力200しかない」とかいうクソみたいな俗説に対するクソリプであり、クソをクソで煮詰めたような記事です。遊戯王の原作コミックスやアニメ、遊戯王公式オフィシャルカードゲーム(OCG)の公式設定や世界観とは一切関係がありません。

 

 


1.モンスターではない!装備カードだ??!

 

「ブラック・マジシャン本体のステータスは攻撃力200しかないことが判明」


これはファン(アンチ?)の間でまことしやかに言われだした俗説ですが、遊戯王の原作コミックスやアニメしか馴染みがない人にとってはマジでまったく意味不明だと思うので、一応解説しながら進めます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社 Konami Digital Entertainment

上に引用した画像は、コナミが製作販売している「遊⭐︎戯⭐︎王オフィシャルカードゲーム(以下、OCG)」の『マジシャンズ・ロッド』『マジシャンズ・ローブ』という下級モンスターカードです。武藤遊戯のエースモンスター『ブラック・マジシャン 』のサポートカード(※)ですね。右にそれぞれの元ネタと思われるカードイラストを並べてあります。
(※特定のカード(ここではブラック・マジシャン ) と組み合わせて使うことを前提とした、デッキの戦術を補佐するカード)


もう見ての通りというか、この下級モンスターたちのカードイラストのデザインが "使い回し" であることは火を見るより明らかだと思います。なので当然こいつらの見た目はブラック・マジシャンのロッドやローブと全く同じデザインなわけです。


ここで『マジシャンズ・ロッド』と『マジシャンズ・ローブ』のステータスに注目。


《マジシャンズ・ロッド》
攻撃力 1600
守備力 100


《マジシャンズローブ》
攻撃力 700
守備力 2000


この2体の下級モンスターたちの攻撃力・守備力をそれぞれ足し合わせます。


攻撃力 1600+700=  2300
守備力 100+2000=  2100


つまりこれらを本体から差し引いた分が、ブラック・マジシャン(ロッドとローブを身に付けていない状態)の素のステータスである、と彼らは言っているわけ。


《ブラック・マジシャン》
攻撃力 2500ー2300= 200
守備力 2100ー2100= 0


ブラック・マジシャンをちょっと小馬鹿にしたい人、ネタとしてイジリたい人たちにとって、この嘲笑的なニュアンスを多分に含んだグロテスクな俗説はたいへん香ばしいものであったようです。ご丁寧に(今はどうか知らないが)遊戯王カードwikiにまでこの俗説が記載されていた時期もありました。


マジで本当にしょうもないマジレスしていいですか?いいよ。この『マジシャンズ・ロッド』やら『マジシャンズ・ローブ』というイラスト使い回し下級モンスターを、なぜ装備カード扱いとして『ブラック・マジシャン』に装備されそのモンスターの攻撃力・守備力をアップさせているカードだと彼らが思っているのか、私には分かりません。

はいはい面白いですね、じゃあもうブルーアイズ三体連結とかのノリで実はブラマジも杖とローブと本体が三体連結すでにしているモンスターということでよろしいか?


ぶっちゃけ言うと、そもそも新たにカードイラストのデザインを起こす気が無い(ブラマジにやる新規枠なんかにリソースを割きたくない)から既存カードのイラスト・デザインをクソテキトーに使い回して "見たまんま" のカード名をくっ付けて済ませた。それ以上の意味は無い。そう捉えるのが文脈的には自然であって「ブラマジ本体の(素の)ステータス」みたいな概念とか関係なくね。で終わる話しです。

しかしOCGのカードイラストには効果とは関係ないフレーバーテキスト的な小ネタが仕込まれていることが多いのも事実。たとえばブラック・マジシャンが身につけていた杖なりローブなりが魔力を帯びて下級モンスター化したとかなんとか他にいくらも取りようはあると思いますが、わざわざモンスター同士の攻撃力・守備力を合算してRPGみたいに装備してステータスアップしているみたいな話しにまで飛躍させなければならない時点でもはや悪意を感じます。じゃあカオスソルジャーとかが持ってる剣や盾は攻守いくつなんだよ。


このブログ記事を書いている人はジョークの類いが通じないクソ石あたま人間なので、所詮ジョークである俗説に対してブチ切れて顔を真っ赤にしながらクソリプを飛ばすようなことと同じレベルの幼稚でナンセンスな記事(本稿)を書くはめになりました。

いや……ブラマジデッキの愛用者とかが仲間内で(見るからに情けない "使い回し" イラストのカードへの返答として)そういう俗説をなかば自虐的に言って笑い合っている分にはふつうに楽しいし面白いと思いますけど、バカにした感じでこじつけて「ブラマジ本体のステは攻撃力200しかないことが判明www」とかやっているのを見ると真顔になってしまうという話しですよ。


ちなみに、同じパックに収録された『黒の魔導陣』はブラック・マジシャンの背景にいつも描かれている魔法陣の完全な使い回しです。もうブラック・マジシャンのロッド、ローブ、背景をそのまま流用しただけの見事なやっつけ仕事。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社 Konami Digital Entertainment

ひと足先に発売された『青眼の白龍』のサポートカード群にはしっかりと手の込んだ新規イラストが惜しげもなく使われましたから、この仕打ちに当時ブラック・マジシャンデッキを使っていた人たちは(多分)怒ったと思います。ライバルが『青き眼の〜〜』とかやっているかたわら、主人公のエースに投げてよこされたのは使い回しのロッドにローブに背景ですからね。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社 Konami Digital Entertainment

ストレートに酷えな(笑)同パックで絵的にマトモだったブラマジ強化カードは『虚空の黒魔導師』くらいか。

救いなのは、この時期に追加されたカードは今でも3枚必須でブラック・マジシャンデッキに採用されるものが多く、性能は高めであることですね。それだけ頻繁に使うカードのイラストがクソダサいという悲劇をも同時に生み出したわけですが。逆に性能が目に余るほどマトモじゃなかったやつは一部後述します。

(こうした公式からの扱いの偏りは本当につい最近まで続いていましたが、OCGでは2019年11月に割とガチめな(これまで散見された  " まと外れの新規カードを配っただけのアリバイ的な強化 "  ではない)ブラック・マジシャンデッキの強化が行われ、2020年1月にはデュエル・リンクスでブラック・マジシャンが環境トップをとり、ついにはあのあまりにも強すぎてヘイトを集めまくった悪名高き『超魔導竜騎士ードラグーン・オブ・レッドアイズ』がOCGに登場しました(2019年末に至るまでの長い冷遇でブラマジ使いが溜めてきたヘイト分をくらいやがれっ!なお、OCG環境で暴れていたのはブラマジを融合素材として墓地に捨てるだけの "ドラグーン出張" デッキであるところがミソ)本当にここ最近になってやっと、以前のような青眼とブラマジとの露骨な格差は埋められつつあるように思います。)


さて少し脱線しましたが、次で話しを戻します。

 

 


2.守護神官マハードのステータスはブラック・マジシャンと同じ(攻撃力2500、守備力2100)


『守護神官マハード』は、劇場版THE DARK SIDE OF DIMENTIONS(以下、映画DSOD)の公開に合わせて作られたプロモーションカードです。このカードの元ネタが原作コミックスのファラオ(アテム)に仕えた「神官マハード」というキャラクターであることは、原作やアニメを知っている人なら容易に連想できると思います。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社 Konami Digital Entertainment

原作コミックスにおいて、ブラック・マジシャンというキャラクターは「神官マハード」の魂と精霊(幻想の魔術師)が融合したことで生まれた存在であることが描かれています。(より正確には、古代エジプト人が現代に遺した石板に描かれた "神官マハードの魂と精霊の融合体" の姿を見たペガサス・J・クロフォードが、それを元にブラック・マジシャンというカードをデザインし、M&Wというカードゲームのモンスターカードとした、という設定。コナミのOCGはこのM&Wを元に作られている。)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

OCGの『守護神官マハード』は戦闘破壊されると『ブラック・マジシャン』を特殊召喚するモンスター効果を持ちます。これは原作コミックスで神官マハードが自らの生命を生贄に捧げブラック・マジシャンに生まれ変わるというシナリオを、OCGカードの効果として再現したものでしょう。


映画DSODのクライマックスでアテム=闇遊戯が召喚したモンスターが守護神官マハードだったという演出からも、このカードのキャラクターが "闇遊戯のエースモンスターである" ブラック・マジシャンとほとんど同一視できる存在であることは明らかだと思います。(表遊戯が使っている、デザインの全く異なる黒いブラック・マジシャンのカードがイコールマハードなのかは詳細不明であり、議論の分かれるところです)


さて、ここでOCGカードである『守護神官マハード』のステータスに注目。


《守護神官マハード》
攻撃力 2500
守備力 2100


例のロッドやローブやらを一切身につけている様子もない『守護神官マハード』は『ブラック・マジシャン』と全く同じステータスを持ちます。

ブラック・マジシャン本体のステータスは攻撃力200しかないとかいう暴論を一蹴したことですでに十分な存在価値があるカードです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この『守護神官マハード』というOCGカードはブラック・マジシャンデッキとの噛み合わせをまったく考慮されておらず、なんならカードの強さとしては全く不要である「原作・映画再現」に終始した性能で、3枚必須で採用されるようなカードでは決してありません。(効果でブラマジを呼んでもタイミング逃して『黒の魔導陣』の効果が発動しないことを知った時はさすがに笑った)


同じく映画DSOD用プロモカードの『青眼の亜白龍』はフィールド・墓地でしっかり "青眼の白龍扱い" となり当時の青眼デッキを環境トップへと押し上げた一因であるほどの高い性能を持つのに対し、『守護神官マハード』はフィールドですら "ブラック・マジシャン扱い" にならず、わざわざ光属性にされたことによって『ブラック・マジシャン』とサポートカードを一切共有できない("このカードはルール上、闇属性としても扱う" の文言とか付けてくれない)しかもカードイラストは高橋和希のデザインではない…?という、ここでも極めて露骨な差別待遇を受けていますが、おそらく公式が意図しなかった部分でこのカードの存在は重要な意義を持っていました。


つまり『ブラック・マジシャン』と全く同じステータスを持つ『守護神官マハード』の登場によって、『マジシャンズ・ロッド』や『マジシャンズ・ローブ』といった下級モンスターたちのステータスは『ブラック・マジシャン』(=マハード)の力の残滓であることが判明したわけです。

 

おわり

 

神官 マハード(終盤の超スピード展開による“とばっちり”をモロに受けた作中屈指の不遇キャラ)についての考察と擁護

 

この記事は純粋に考察を目的としています。批判っぽく見てる言い回しがあるかも分かりませんが、作品やキャラクターを貶める意図は無く、他の方の考えを否定するものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。m(__)m

 

 

 

1.コンセプト。「 “カードと決闘者の絆“ を体現するキャラクター」

 

闇遊戯のエースカー「ブラック・マジシャン」は、実は前世では人間でした。ざっくり言うと神官マハードはそういうキャラクターです。

本作では『カードと心を一つに』『自分とカードを信頼し合えるか』 といった表現が登場し、デュエルディスクで投影されたソリッドビジョンでしかないはずのブラック・マジシャンが闇遊戯をかばったりするシーンが描かれていました。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社


いや……

『カードが自らの意思で』ってズルやん。

『自分とカードを信頼し合う』ってなんやねん。

おいデュエルしろよ。

 

そういった作品への問いに対する一つの回答が「神官マハード」です。

なぜカードであるブラック・マジシャンが闇遊戯をかばうのか?なぜカードと人間との間に信頼が成立するのか?
それは、古代エジプトの魔術師だった神官マハードの魂(と精霊が融合して生まれた何か)がブラック・マジシャンのカードに宿り、現代においても闇遊戯を守っているからです。

原作者自身がキサラと海馬の方に入れ込んでしまったため疎かにされがちですが、神官マハードは「闇遊戯とブラック・マジシャンの信頼と絆」のルーツを体現するためだけに登場してきたキャラクターであることは念頭に置いておくべきでしょう。

 

2.神官マハードの置かれた状況。 「それ…魔術師の仕事なんすか…?」

 

「警護団長」ってなにする人??

登場から早々に王墓が盗掘され、神官セトが執拗に神官マハードを責め続けているため、なにか「失態を犯した」感が異様に強く描かれています。しかしよくよく読んでいくと

神官セト「盗掘を許したのは現場の連中だが 責任者はお前なんだからお前がケツ持ちしろ」

くらいの意味であることが分かってきます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

このシモン・ムーランとのやり取りから、普段はマハード自らが現場で警護をすることは無いということが示されており、だからこそ盗掘騒ぎの直後に王家の谷を視察する流れになっています 。

それもそのはず、大勢いる神官(現代でいう公務員)の中のトップ六人厚生労働大臣とか防衛大臣とかみたいな…?大臣は公務員ではないけど)のうち一人が、こんな最前線で一兵卒に混じって警護をするってふつうは無いです。トップは王宮(本庁)から指示を出すのが本来の職務でしょう。

 


 広大で過酷な涸れ谷に点在する何十個もの墓を、盗掘の専門家集団から守るだけのカンタンなお仕事

原作者がどこまで現実の古代エジプトの史実や当時の状況を意識しながら描いていたかは分からないので安直な結び付けはできないものの、古代エジプト第18王朝の歴代ファラオの墓広大で過酷な環境の涸れ谷(王家の谷)に点在しています。なぜこんなへんぴな場所に隠すように墓を建てはじめたかというと、この時代以前(第11王朝あたり)から歴代王朝は盗掘被害に悩まされ続けており、すでに深刻な社会問題になっていたからです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

近頃 頻繁に王墓が荒らされている』つまり最近までそんなことなかったのは、神官マハード率いる警護団がずっと王家の谷を保守管理していたおかげでしょう。

しかも墓の警護に千年輪の探知能力をあてにしているということは、広大な王家の谷の規模に対して必要十分な人数の兵士を配置することすらできない状況が推察されます。(メタ的な視点だと、これは盗掘を許した警護団を取りまとめる神官マハードに対するある種のフォローであり、原作者が警護団の人員事情まで考えて描いていた可能性は低いが)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

「邪念」が多い場所に人員を集中させ流動的に配置を変えなければ対応できない、なのに千年輪までイカレ始めた。だから神官マハードは増員を要請していますよね。

史実では、この王家の谷には24基の王墓を含む計64基の高貴な人々の墓が点在しています。(現在見つかっているだけの数。この中には第19、20王朝の墓も含まれます。)作中の描写だけではたったの一つや二つしかない墓をみすみす盗掘されている(王家の谷には先王アクナムカノンの墓しかない)というような印象になってしまい、描き方としてはやや悪手だったと思います。

あくまで遊戯王の世界なので現実の史実を引き合いに出して決めつけるのはナンセンスであるものの、「古代エジプト第18王朝」という実在の王朝を明らかにモチーフとして作品のディテールに組み込んでいるわけですから、本作が "フィクションとしてのリアルさ" を持った作品であるならば、王家の谷には少なくとも第18王朝の歴代ファラオの王墓と、貴族の墓も無数にあるはずです。加えてこの谷以外の場所にある第18王朝以前の墓も全て警護するとしたら一体どれだけの人員と労力が必要なのか、これで想像がつくと思います。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上の画像は、神官マハードが亡くなったことを知った兵士達が石版を見上げているシーンです。彼らの様子をみると、神官マハードは兵士達に慕われていたようですね。現場からの信頼が厚いトップは有能な人が多いです。

場合によっては盗掘された墓の警備にあたっていた兵士が罰せられるような状況も考えられましたが、神官マハードは『責任はすべて私にあります』と言って、現場のせいにするようなことは一言も言いませんでした。しかしその一連のシーン(神官セトに言いたい放題言われながらただ沈黙し、ファラオに平伏する様子)が、神官マハードのキャラクターとしての魅力に結びついているかは疑問です。(王宮にひったてられてきた兵士達をかばうくらい描いてくれればいいのに…。どうせ王宮裁判のシーンと盗賊王バクラの登場シーンを描くために、少なくとも2回(2カ所)盗掘されることはシナリオ上決まっていたんだから。)

 

王墓の警護って魔術師の仕事なんすか…?

現代のように便利な移動、通信、照明の手段さえない古代エジプトで、この過酷で広大な谷に点在する全ての墓を24時間体制で警護するとしたら、水や食料、火を灯すための燃料、薬などの補給体制を持ち厳格な指揮命令系統で高度に統率された軍隊(に相当する能力を持つ集団)でなければ不可能です。

そもそも人間の兵士による人海戦術を行う警護団の最高指揮官を軍人ではなく六神官の中の誰かに任せるなら、「千年タウク」で未来を予知できる神官アイシス墓守一族のイシズ・イシュタールと関連あり?)の方がまだ適任に思えます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

本来、古代エジプトにおける魔術師(魔導士)は儀式や治療などを司る専門職です。神官マハードが『魔術の腕を見込まれて神官に選ばれた』という設定を自然に生かすなら、王墓の周囲に結界を張ったりする補佐の役割の方が適任でしょう。

というかむしろ墓とかよりファラオの右腕の魔術師のような人物像にしないと、なぜ現代で闇遊戯が最も信頼するモンスターが三体の神ではなくブラック・マジシャンなのかイメージが掴みづらいです。古代エジプトでは、ファラオの代理人として魔術的修行をつんだ神官に政治をさせていました。)

しかし作中での神官マハードの設定や行動はある展開上の都合によって「王墓の警護団長として登場し、王墓の中で盗賊バクラと対決し、千年輪を奪われる→ブラック・マジシャン誕生」という決まったシナリオに沿わされています。詳しくはこちらの記事の第4項をぜひみてください。

rootm.hatenablog.com

ちなみに、墓荒らしは墓の情報に接することができた限られた人間(墓職人)による世襲の専門職であり、単なるコソ泥やゴロツキとはワケが違います。盗賊王バクラの故郷クル・エルナ村は、王宮の墓職人が墓荒らしとなって住み着いた村という設定になっています。

 


3.神官マハードの決意が結実する、最大の見せ場

クル・エルナ村で盗賊王バクラに死霊の大群をけしかけられ絶体絶命となったファラオのもとに精霊化したマハード(ブラック・マジシャン) が駆けつけたシーン。
盗賊王バクラが下の方の一コマでさらっと重要な設定を喋っています 。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

『無駄だ…死霊共の怨念は千年宝物所持者に特別な力を発揮するぜ!!』


盗賊王バクラによれば、この「死霊」とは7つの千年アイテムを誕生させたとき生贄にされた人々のガチの怨霊で、なんと千年アイテムの所持者を無力化します。(盗賊王バクラは死霊たちのいわば同胞なので襲われないし、千年輪の力は「形あるものに持ち主の精神を移す」ものであって死霊たちを操っているわけではない)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この死霊たちは神官団へのメタカード(対策カード。相手にそのカードを使われることによって最悪デッキが機能停止してしまうような相性最悪のカード)です。 だからこそ盗賊王バクラはこのクル・エルナ村を決戦の舞台に選び、 神官団が攻め込んでくるのを地下神殿でじっと待っていた。

この場所に足を踏み入れた時点で神官団は詰みです。だって神官団の主要メンバーは全員が千年アイテムの所持者で、虐殺を主導した王朝側の人間だから。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

このシーンではファラオとたまたま居合わせていた神官シャダだけが二人で苦しんでいましたが、本来なら、神官団は最初から全員がこの場に居合わせて

いざ盗賊王バクラVS神官団の対決になったら、千年アイテムを持つ神官たちが死霊の効果で皆んな動けなくなって誰もファラオを守れない!さあどうする?!となったその瞬間に駆けつけたブラック・マジシャン(盗賊王バクラに千年輪を奪われて千年アイテムの所持者でもなく人間ですらなくなった神官マハード)だけが死霊をはね返し、ファラオの窮地を救うことができた。そしてファラオと "六神官" の反撃が始まる。

そういうシーンにならなければおかしいです。序盤で下げまくったメインキャラクターの挽回シーン(下げて上げる演出というのは、そのように描いて然るべきです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

というか原作者は当初はそんなような展開を意識していたと思います。ではなぜ

  • 死霊に襲われファラオと神官団ピンチ!
  • 精霊マハードが駆けつけ死霊を払う
  • ファラオと  " 六神官 "  の反撃開始!

……で済む話しが、わざわざ

  • まず神官シャダがファラオと合流
  • 死霊に襲われファラオピンチ
  • 精霊マハードが駆けつけ死霊を払う
  • 一時はマハード優勢も、なぜかハードの魔力(ヘカ)の前では通用しないと実証されたばかりの死霊のオーラによって)魔力(ヘカ)による攻撃がディアバウンドに届かなくなる
  • またピンチになってマナ登場
  • 残りの神官団が登場

……みたいなまどろっこしい不自然な話しの段取りになっているのか?


それは人気キャラのブラック・マジシャン・ガール(マナ)をここで登場させるため。


どうにかブラック・マジシャン・ガールをねじ込むなら、師匠のピンチに弟子のマナとその精霊が駆けつけファラオがはっと振り向くと神官団参上!の方が、マンガの流れとして目を引くしスムーズだから。「古代のガールたんきた〜〜!!!!」という読者の興奮を誘いたいですよね。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ブラック・マジシャン・ガールの助太刀によって注目されにくくなっているのですが、あの場で唯一「死霊」の効果を受けない精霊マハードが先に露払いをしたからこそ、 あとからやって来た神官団も(神官シャダのように足止めをされることなく)連携して盗賊王バクラと戦うことができました。

極端な話し、神官マハードがもし千年輪を奪われずそのまま生き延びていたとしたらアクナディンの闇堕ちは無かったにせよ、みんな仲良くクル・エルナ村で死霊の餌食になって終わっていたわけです。そうなれば盗賊王バクラがゾークと契約し、世界も終わっていたでしょう。

5D'sの遊星ではないですが、結果的に神官マハードが千年輪を奪われたことも、その闘いで自らの命を生贄としたことも、 全てに意味があった。つまり(神官セトが発した前振りをここで回収)無駄な死(犬死に)など無い。そう読者に強く印象付けるような描き方をしなければならない、本来ならそういうシーンだったと思います。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし実際描かれたマハードの活躍は「またバクラに挑んで結局ピンチになり、神官団が到着するまでの時間をかせいだだけ」の役に成り下がってしまいました。

ここでガールを登場させるためだけに、神官シャダとマハード、二人ものキャラクターが結果として  " 噛ませ "  に使われ、全体の流れも損なっている。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

マナが駆けつけたシーンは生前のマハードが育て上げた次世代の種が芽吹いて自身を助けたことを表しており、決して意味ないシーンとか人気キャラのガール出したかっただけとかではないと思います。 しかし、その場で優先して描かなければならないテーマを明らかにはき違えています。「師弟の絆」も確かに大切な要素ではありますが、そのためにエースの活躍が中途半端になってしまっては本末転倒……石板に描かれたファラオのしもべはブラック・マジシャンです。

最後にマハードが盗賊王バクラのディアバウンドにとどめをさすことで最低限度の名誉挽回はしていますが、これは非常に形式的に見えます。

 


4.キサラと神官マハード、どこで差がついたのか?

 

説得力の違い。「男女の愛」と「自責の念」

ファラオの記憶編をみていく上で忘れてはならないのは、連載当時、頑張りすぎてしまった原作者の体調がもう限界で、連載を早期終了するため致し方なく、本来の構想からストーリーが大幅に省略・改編されているという事実でしょう。

推敲不足の高速展開であっても神官セトとキサラの場合はいわば男女のロマンスになるので、 " いつの間にか "  精霊ではなくキサラ自身を愛していた! という成り行きにある程度の説得力があります。キサラの美しいビジュアルもあいまって、読者はさほど違和感なくこの悲恋のような儚い関係性に入り込むことができたでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

一方、アテムと神官マハードの場合……

神官マハードが自らの生命や魂まで捧げてアテムに仕えた理由は、 自分が死なせてしまった(と神官マハードが思っている)先王アクナムカノンの息子がアテムだからという説明以上のことが原作では描かれていません。

アテム自身が神官マハードのことをどう思っていたのかすらほぼ謎。アニメ版の幼なじみ設定のようにもともとアテムと神官マハードが個人的に親しい間柄なら話しは早かったと思いますが、残念ながら本誌で彼らの信頼関係や詳しい過去について掘り下げるページの余裕は無かったということです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも石盤の精霊ハサン(先王アクナムカノンの精霊)とかまで出てきて、神官マハードの苦渋の選択によって結果的に先王アクナムカノンは命を落としてしまった(からこそ、その息子であるアテムに神官マハードは自分の命を捧げた)という設定すらひっくり返ります。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

おそらく「実はマハードは悪くなかったんだよ!(直接の死因は神官マハードが原因じゃない)」という原作者の思いやりでしょう。

ブラック・マジシャンの(闇遊戯への)忠誠心のルーツを掘り下げるページの余裕が無いからと「先王アクナムカノンの死」を神官マハードと結びつけて、神官マハードのせいで亡くなったみたいに描いておきながら、半ば無理やり真実を言わされ先王は自分のせいで死んだと思ってずっと自責の念にかられてきた(という  " 設定 "  になっている……)神官マハードの苦悩を横に置いてなんの話しをしてんだ……?

現代まで繋がる闇遊戯(アテム)とブラック・マジシャンの信頼や絆というそもそもの部分の描写がすべて説明的・アリバイ的で、丁寧さを欠いています。

 

モンスターとしての扱いの差

アテム(闇遊戯)と神官セト(海馬)をあくまで対等にするためか、ブルーアイズは『ファラオの三幻神をも凌駕せん力』『神に匹敵する』等と色々  " 盛られて "  います。

一方で、ブラック・マジシャンに関しては、本当なら神の方が強いがアテムが千年錐を奪われている、またはバーを消費してしまって神を呼べないから、成り行きでマハードを使役して戦っているという状況です。VS盗賊王バクラのときは成り行きでも良いとして、それ以降の闘い、神官セトとの最後の決闘においてさえ、アテムがあえて神ではなくマハードを呼んだわけですらない。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そういう風につじつまを合わせるなら、ファラオが最初から三幻神を操れる設定とか必要なかったんじゃないでしょうか?べつに神でなくともウェジュの石盤から適当に強力なモンスターを召喚できればストーリーとしては殆ど事足りる話しであって、要は主人公だから  " 盛られて "  いるんですよね……。そのためにブラック・マジシャンの存在感は著しく損なわれています。

アテム(闇遊戯)と神官セト(海馬)をあくまで対等に、力は互角であるとして描く……という視点から見ると、ゾークとの闘いで消耗しきった状態のアテムにフルパワー状態のブルーアイズで殴りかかったら神官セトが勝つのは当然だろう……というニュアンスを汲み取ることはできるでしょう(神官セトもそれを分かっているからこそ、来世での再戦を願う石板を遺したともとれる)。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかしそのために、肝心の主人公のエースモンスターがあっけなく蹴散らされて終わりというのは、作品の体面としては大分マズイと思われます。(表遊戯とのラスト決闘でもサイレント・マジシャンに師弟まとめて蹴散らされ、最後はオシリスの天空竜が出てきて終わりだし……)

魔法カードや罠カードとのコンボで自身より攻撃力の高いモンスターとも互角に戦えるというキャラだからこそブラック・マジシャンは主人公のエースに相応しいのであって、パワーで圧倒する海馬の王道スタイルも映えるのであり、攻撃力3000のブルーアイズ>>>攻撃力2500のブラック・マジシャンみたいな所だけ妙にルールに忠実にしてしまっては本末転倒です。

 

原作者が描きたかったのは「キサラ」

原作者は神官セトとキサラ、海馬とブルーアイズの描写には一定のこだわりを見せ続ける一方で、アテムが千年パズルに魂を封印されている間にマハード(魂と精霊が融合し不死となっている?)は何をしていたのか、アテムが冥界へ還ったあとマハードはどうなったのか(アテムと共に冥界へ還ったのか?表遊戯のいる現代に残ったのか?)さえ、一切の描写を放棄しています。(はっきり言ってブラック・マジシャンは割とどうでもいいという姿勢が描写の薄さから透けて見えている)

劇場版DSODのパンフレット等で「ブラック・マジシャンの魂がアテムから表遊戯に受け継がれた」(←はあ…?)という旨の記述がありますが、正直意味不明です。受け継がれる筋合いがどこにあるんでしょう…?表遊戯にはガンドラやサイレント・マジシャンというエースモンスターがいます。ブラック・マジシャンにとっては表遊戯もマスターであるとはいえ、神官マハードと表遊戯との間に魂の繋がり的なものは一切ありません。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

キャラクターとしては全く同じコンセプトの「キサラ」と「神官マハード」ですが、キサラは神官セト(海馬)が唯一愛した女性であり作中最強のモンスターであるという無二のポジションを与えられている一方で、アテム(記憶の世界にいる闇遊戯)の心を支える存在としては当然、現代からの相棒(表遊戯)とその仲間たちがメインで描かれます。ファラオの使役する強力なモンスターは三幻神の方が絵的にカッコいいし読者ウケも良いです。(最終的な人気投票の結果はガールが断トツ1位、オシリスが3位、ブラック・マジシャンは少し離されて4位)

神官マハードは「主人公のエースモンスター」のルーツという重要キャラクターでありながら、あまり意義のあるポジションを原作者から与えられませんでした。

 


5.まとめ「作中屈指の  " 不遇 "  キャラ」

個人的な好みなどの感情をあえて排して事実だけに着目すると、作中の設定やストーリー構成において「神官マハード」の重要度は、相対的にあまり高く扱われていません。

このキャラクターの本当の意味での救済は「史実編」に期待するより他に手立てがない状態です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇のTRPGというゲーム内の仮想世界ではなく史実の古代エジプトでは本当は何が起こっていたのか、それらは謎に包まれたまま、 原作本編は終了しています。

おそらく神官セトはファラオを裏切り第三勢力となって、神官マハード → ブラック・マジシャンがファラオの忠実なる右腕として台頭し、壮大な三つ巴の戦争に発展したのでしょう。

多くを望むことを許されるなら、原作者がもともと構想していたという古代エジプトの史実の物語が、今後なんらかの形で発表されることを切に願います。


なんならもう、デュエルリンクスで補完とかでもいいので!!お願い!!!

おわり

表遊戯はアテムの生まれ変わりなのか?DSODで海馬がたどり着いた場所って?【遊戯王 考察】

 

この記事は純粋に考察を目的としています。批判っぽく見てる言い回しがあるかも分かりませんが、作品やキャラクターを貶める意図は無く、他の方の考えを否定するものでは決してないことをご理解くださいませ。m(__)m

 

 

 


1.この記事の目的

原作「遊戯王」の本編において、神官セトと海馬瀬人、シモン・ムーランと武藤双六のように、ほとんどそっくりな見た目でこいつらは明らかに「前世」「来世」の関係だろうと思えるようなキャラクター達が何組か登場します。

しかしその一方で、アテム(闇遊戯)だけがいわゆる転生や生まれ変わり的な意味での「前世」「来世」とは全く関係のない世界観で描かれます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

記憶の封印を解かれたあとアテムの魂は冥界(高次元シフトした世界)に還り、その世界が彼にとっての「来世」です。アテムは現代やその先の未来の時代に生まれ変わることはありません。現代にはアテムにそっくりな少年「武藤遊戯(以下、表遊戯)」がいますが、この表遊戯はアテムとは元々関係ない別個の魂を持った他人です。

この記事では、なぜキャラクターごとに描かれ方の死生観が異なり、アテムだけいわゆる "転生" や  "生まれ変わり" の概念がないことになったのか、劇場版THE DARK SIDE OF DIMENSIONS(以下、劇場版DSOD)で海馬がアテムと出会った場所はどこなのかを考察していきます。

 

 

2.武藤遊戯はアテムの生まれ変わりなのか?

本題に行く前にまずは前提の確認。「前世」「来世(生まれ変わり)」の関係にあると思われる神官セトと海馬、シモンと双六の例を確認し、それから最後にアテムと表遊戯をみていきます。


シモン・ムーランと武藤双六

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上の場面は若かりし日の双六がエジプトで王墓に進入し、千年パズルを手に入れたエピソードのワンシーンです。アテム(の魂?)が双六に向かって「シモン」と呼びかけ、手を差し伸べています。(この墓の主がアテムなのかは謎ですが、この直後に双六は千年パズルを発見します。)

この描写は、双六がほとんどイコールシモンで同じ魂を持った生まれ変わりでなければ説明がつきません。

ここで双六を助けたアテムは、後の本編に描かれた「記憶(闇のTRPG)の世界のアテム」……つまり記憶喪失中の闇遊戯が中に入ったファラオ……ではありません。おそらく当時のままの、いわば「史実通りの」アテムです。シモンと双六がそっくりであるように、当時のアテムも表遊戯とそっくりの姿をしています。

 


神官セトと海馬瀬人

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

原作者は、神官セトとキサラのくだりについて、海馬がブルーアイズに固執する理由を説明するために重要なエピソードであると文庫版のあとがきでコメントしていました。

これは海馬がほとんどイコール神官セトで、同じ魂を持った生まれ変わりでなければ筋が通らない話です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

原作者はキサラの魂=ブルーアイズが海馬を守っているような描写にこだわり続けており、「神官セトの魂にキサラが寄り添い守護している」というメッセージを込めています。

その一方で、例えばこの「キサラと海馬」の関係性が、「神官マハードと表遊戯」の関係性には全く当てはまらないことは明白でしょう。(描写というか原作者の入れ込み方が偏っているので、神官マハードと闇遊戯の関係性にすら当てはまるか微妙だが…。)

 


アテムには「生まれ変わり・転生」の概念がない

結論ですが、ご存知の通り表遊戯はアテムの生まれ変わりではありません(設定上)。双六とシモンの描かれ方や、海馬と神官セトの描かれ方とは明らかに「死生観」が違います。

なぜなら、表遊戯とアテムは途中から、それぞれ別々の魂を持ったまったくの他人として描かれているから。表遊戯の心の中に間借りしている闇遊戯が分離して、「もう一人の遊戯」ではなく「アテム」という別個の存在として冥界へ還ることが本作の結論部分であり、「自立」というテーマを表しているからです。だからこそ闘いの儀において、ブラック・マジシャンは明確にアテムのしもべとして表遊戯の前に立ちはだかりました。(もし冥界で神官セトと海馬が出くわし決闘する場合、どういうことになるのか気になります。)

 

 

3.劇場版DSODのラストシーンで、海馬はどこにたどり着いたのか…?

 

混在した死生観。「輪廻転生」と「来世での復活」

原作本編において、神官セトやシモンの描かれ方の死生観は、いわゆる生まれ変わり……「輪廻転生」の考え方が採用されています。古代エジプト人である彼らが現代に生まれ変わった魂が海馬や双六であるという考え方です。(合ってる……よな?)

その一方で、アテムに関しては古代エジプト的な死生観……「来世での復活」という考え方が採用されています。これは死者の魂が別な時代に生まれ変わるのではなく、冥界という別な世界(楽園アアル)に行ってそこで第二の人生が始まるという死生観です。古代エジプト人にとっての「来世」とは冥界での生活のことです。原作本編でアテムは最後に冥界へ還って行きますよね。

劇場版DSODで描かれた「次元上昇」は、この古代エジプト人の死生観をSF的に再解釈したものと捉えることができます。アテムのいる冥界=次元シフトによってしか到達できない、遊戯や海馬たちの世界とは物理的な次元の異なる高次元の世界』です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

原作のラストシーンで冥界の扉をくぐったアテムが向かった先に、劇場版DSODは新たな解釈を与えました。

つまり、映画のラストシーンで海馬がたどり着いた場所は冥界であり、原作本編でアテムが向かった先もまた冥界。アテムは冥界の扉をくぐったことで高次元シフトした……という解釈で間違いないと思います。

(余談: 本来、" 高次元"  とは単に物理的な次元が高いという意味です。4次元世界、5次元世界、それ以上……ともなるとしょせん3次元的な思考や価値観しか持たない我々には到底理解できない、描写することさえ難しい世界になってしまいます。そのためメジャーなSF作品のいくつかにおいて、高次元の住人は「人智を超えた文明レベルを持つ異星人」として描かれることが多く、高度に発達した社会には飢餓や戦争は存在しない=高次元の住人からみると地球人は  " 物理的・精神的に次元が低い "  というダブルミーニングになっているのですが、そこをストレートに「高次元の世界にアクセスできる(高次元の世界に行かせる価値がある)のは、子どものように純粋な魂を持つ徳の高い人間、意識の高い人間のみである」というようなニュアンスでシャーディー・シンやプラナたちの言動を描いた映画DSODは、3次元以上の世界を扱うSF要素の描き方としては少し毛色の異なる作品であると思います。)

 

海馬がたどり着いた冥界に、神官セトやシモンはいるのか?!

なるほど…… アテムだけが「前世」と「生まれ変わり」みたいな考え方とまったく別の世界にいるのは、1つの作品の中に異なる「死生観」が混在しているからなのか。

 

ここで、一つの問題が浮上……。

 

神官セトの魂は海馬瀬人として生まれ変わって現代にいる(?)が、それとはまた別に、神官セトは冥界(高次元の世界)にも存在しているのか……??(シモンと双六についても)

このマンガのキャラクターたちの描かれ方の「死生観」って結局どうなってるの??

この問いに対し、表遊戯が現代にいてアテム(闇遊戯)が冥界にいるんだから、海馬が現代にいて神官セトが冥界にいても問題はないだろう、と我々は考えがちです。しかし表遊戯とアテムが別々の世界に同時に存在しているのは、彼らが元々別個の魂をもつ別人だ(という設定に途中からなった)からであって、同じことが神官セトと海馬に言えるでしょうか……。
海馬はなぜブルーアイズに固執してるんでしたっけ……? "前世の繋がり" があるから、というニュアンスでしたよね。アテムから表遊戯へブラック・マジシャンの魂が受け継がれた(←はあ…??)ようなワケにはいかなくないですか……?

原作者は劇場版DSODのパンフレットで『マルチバース理論』という単語を出しましたが、この「似たような歴史を持ち似たような人々が生活している宇宙が無限に存在しそれぞれの宇宙には自分のドッペルゲンガー =もう一人の自分 がいる、あるいは観測者であるそれぞれの人の認識の分だけそれぞれの宇宙がある」というような概念を持ち出したとしても、原作で海馬は神官セトの生まれ変わりのように描かれているのになぜアテムの死生観だけ「来世での復活」や「次元シフト」なのか……というような作中の矛盾に対する回答にはなり得ないでしょう。

 

 

4.なぜアテムだけ「死生観」が異なってしまったのか?

理由としては、途中で主人公武藤遊戯の設定が変更されたことが大きかったと思います。

もともと「武藤遊戯」というキャラクターは「表と裏の人格をあわせ持った少年」という設定でしたが、王国編が終わりバトル・シティ編に入っていく辺りから「闇遊戯はじつは表遊戯の心の中に間借りしている別人」だという話しになりました。

原作者は遊戯王という作品は最初から古代エジプトのファラオの関わる話しにしようと決めていた』と文庫版のあとがき語っていますが、なぜか「古代エジプトのファラオの話し」や「ファラオを主人公にしようと決めていた」と表現せず、『ファラオの関わる話し』というかなりフワッとした言い回しをしています(真の主人公は表遊戯だとはいえ、闇遊戯=アテムは事実上の主人公なのに)。これは、連載当初は「武藤遊戯」をファラオにする予定はなく、闇遊戯は主人公である武藤遊戯が持つ人格の一つという設定だったので、そう言い回すしかなかったためと思われます。

当初の本作は二重人格キャラとして表と裏の遊戯が互いを認知し共存していくような路線でしたが、原作者は『どのような形であれ、遊戯は「もうひとりの自分」と向き合い、真の「自立」を勝ち取らなければならない』と考えていたことを語っています。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上のシーンはまさに、「最初はこういう風に描いていたけど、実は違ったんだよ(設定が変わったよ)」ということを杏子の心情と言葉を借りて読者に説明しているシーンと言えるでしょう。

そうなると新たに考えなければならないのは、表遊戯が真の自立を勝ち取り、闇遊戯と別れたあと、闇遊戯の魂はどこへ行くのか……という部分です。それが『ファラオの関わる話しにしようと決めていた』→ファラオの魂を冥界へ還すという構想と結びついて、最終的に「ファラオである闇遊戯=アテムは本来の居場所である冥界に還っていった」という現在の形に落ち着いたのではないでしょうか。

しかしそうなると一番気になるのは、変更前はどんなストーリーが想定されていたのか?という部分ですが……。

 

 

5.闇遊戯の失われた記憶は、表遊戯の「前世の記憶」だった?

 

(※この項は考察や推測というより当ブログの妄想です。マジでなんの根拠もありません。)

 

千年パズルが「武藤遊戯」を選んだわけ

当初、闇遊戯と表遊戯は「前世の自分」と「今の自分」という設定で描かれる予定があり、武藤遊戯は千年パズルの封印を解いたことで前世の記憶が(一部)蘇り、前世の自分が目覚めている間だけ別人のようになる=闇遊戯……というようなストーリー案があったのではないでしょうか?(神官セトやシモンはこの「前世」の設定を引きずって描かれている)

パズルに封印されていたのは闇の力「墓を荒らす罪人を裁く番人の力」で、番人の魂が現世に生まれ変わってくるのを千年パズルは待っていた(パズルが武藤遊戯を選んだ)。そして現代に蘇った番人は、人の心の領域を踏み荒らす罪人を「闇のゲーム」で裁く。心の領域にしまわれた宝は「友情」といったところでしょうか……?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上の画像は闇遊戯がファラオの魂であることを想定して描かれたシーンでは多分ないですよね。シャーディーはパズルの力の秘密を知りたがり、必要なら闇遊戯を三千年の墓守りの血族にとりこむとまで言っています。

当初の闇遊戯が「墓を守る番人」だったからこそ『千年アイテムは王墓をあばき財宝を盗みだす罪人を裁くために生み出された』という設定が最初に描かれたのであり、そのステージである王墓は『盗賊を地獄へいざなう死と闇の遊戯』なのです。

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『それらは古代の王に仕える魔術師達によって「王墓をあばき財宝を盗みだす罪人」を裁くために生みだされたもの…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『盗賊にとっては地獄へ誘う死と闇の遊戯場…』
(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかしそうなると、番人に仕えられる側の「ファラオ」にまつわる者として登場する予定だったキャラクターが闇遊戯の他にいたかもしれないということになるのですが……私はマリク・イシュタールこそが最初はファラオ(の生まれ変わり?)として登場する予定でデザインされたキャラクターだったのではないかと予想しています。

 

元々はマリクが「ファラオ」として登場する予定だった?

「マリク」アラビア語を意味します。ファラオへの反逆児・復讐者として自分で勝手にそう名乗っている通称という設定なら分かるのですが、王に仕える墓守り一族の少年に「マリク(王)」と名付けられているのは設定としてかなり不自然です。

登場初期のマリクは「ファラオであるアテム」と同じようなデザインの王冠を身に付けていますよね(アテムの王冠は髪型に負けないよう更に派手なデザインになっています)。これは最初に起こしたデザインをそのまま使っていたからではないでしょうか。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまり、千年ロッドに宿った「闇マリク」こそが三千年前のファラオの魂だったのでは……?という想像です。(それも「父親」や「教師」など権威者を悪役にしたがる原作者の傾向からして、圧政を敷くタイプの悪いファラオ)

番人だった闇遊戯がファラオになったので、ファラオだったマリクが番人の一族の末裔として本編に登場した(想像)。

元々マリクの設定は不自然な点が多く、遊戯や獏良と同じに千年アイテムの所持者で二重人格であるにも関わらず、なぜかマリクだけが「トラウマによって自分の中に別人の人格を作り出してしまう」という本来の意味での多重人格者として扱われています。もともとの設定では闇マリクも「千年ロッドに宿った闇の人格」だったと考えればつじつまが合うのです。

現代のエジプトでは王朝は断絶していますが、ファラオの一族の血を引く人がどこかに生きていたとしてもおかしくはないように思えます。元々の設定だと表マリクはファラオの血族かなにかで、現代にファラオの力を蘇らせようと考えているキャラクターとかだったのではないでしょうか。(想像)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そもそも墓守りの一族としては先にシャーディーというキャラクターが登場しているのに、それとは全く別の系統として設定の被る似たようなキャラクターを登場させるのはやはり不自然に思えます。

もしマリクがファラオならイシズはファラオの姉、リシドはファラオに仕える従者のような属性のキャラクターだったのかも分かりません。(リシドは神官マハードの原型か…?ぶっちゃけ主従関係にあるキャラ同士としてはアテムと神官マハードよりマリクとリシドの方がよほどしっかり掘り下げられている。)

(※ここまで全て妄想)

 


6.まとめ

これらはすべて推測です。確認する手立てもありません。(ストーリーの構想を考えついた時期などは原作者本人ですら記憶が曖昧になっている可能性あると思います。)

しかし、私はアテムの描かれ方の「死生観」だけが本作の中で奇妙に浮いている理由を考えたとき、前述のような紆余曲折の経緯を想像(妄想)せずにはいられないのです。

 

おわり

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原作ファラオの記憶編までを読んで、うーん…と思ったこと【遊戯王 原作 感想】

 

※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、作品に対してガチで貶めたり叩くような意図は決してないものの、(考察としての)批判的な内容が含まれています!

 

 

 

 

 


1.ブラック・マジシャンの扱いが総じてしょぼいので、相対的に海馬の実力もしょぼく見える件

 

原作本編や劇場版DSODで描かれた内容だけでは「闇遊戯が最も信頼するエースモンスター」という説明的な設定が単なるアリバイでしかないからブラック・マジシャンはいつもパッとしないし、そのルーツとされる神官マハードは作者側のストーリー展開の都合でさんざん仲間の足を引っ張るよう描かれて原作本編は終わり。そんなブラック・マジシャンに対してブルーアイズという誰がどう見ても強くてカッコ良い、前世から完璧なモンスターで上から殴りに行っても闇遊戯に勝てなかった海馬はもっとダサい。

 

ブルーアイズって古代エジプトではファラオの三幻神をも凌駕するとか言われていて、ブラック・マジシャンなんか手も足も出ずに蹴散らされてるわけですよ。

魔法カードや罠カードとのコンボで自身より攻撃力の高いモンスターとも互角に戦えるというキャラだからこそブラック・マジシャンは主人公のエースに相応しいのであって、パワーで圧倒する海馬の王道スタイルも映えるのであり、攻撃力3000のブルーアイズ>>>攻撃力2500のブラック・マジシャンみたいな所だけ妙にルールに忠実にしてしまっては本末転倒では??(普段は友情パワーでなんでも解決させるのに)

ライバル側をさんざんお膳立てした上で主人公のエースは三幻神やホルアクティの単なる代わりみたいに意味もなく召喚され、「黒き魔術師(←本当は三幻神)を操る若き王、対立する白き幻獣使いの神官」という絵ヅラだけを雑に回収してハイおしまい。これ……作品として、原作者としてはそれでOKなんですか……?

あれだけ宿命のライバル感出して引っ張っておいて、いっそバカバカしさすら感じるほどあっけない決着。闇のTRPG内での出来事であって本当の史実ではどうか分からない、でも原作本編で描かれた事実はそれだけ。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし現代の海馬はというと、M&Wで最強のモンスターカードとされるブルーアイズを使っているのに闇遊戯のブラック・マジシャン(を主力とする)デッキに勝てない。環境デッキ使ってるくせにファンデッキに勝てないみたいな状態……。

これだけでも闇遊戯と海馬の実力の差はハッキリしているように見えるが、原作者としては海馬がいつも勝てない原因をカードと心をひとつにすれば』とかの力』とか憎しみを束ねても、それは脆い』ためということにしたい。にも関わらず、彼らのルーツとして描かれたファラオの記憶編でアテムと神官マハードとの友情やブラック・マジシャンとのは大して深く描かれず(アニメでは多少補足されたが)、海馬にゆかりのある神官セトとキサラ=ブルーアイズの愛()の方を入念に掘り下げ始めてしまう。ではアテムが神官セトとの決闘にあっさり負けたのは、アテムとマハードの絆よりも神官セトとキサラの愛の方が強かったから、ということでいいですか?

何がしたいのか分からないです。明らかに配分というか、バランスが狂っている。

多分本来の構想ではキサラを殺されたことへの復讐に取り憑かれてファラオ(アテム)を裏切ったことが『憎しみの闇に支配されている』ということにしたかったんだろうが、その割に神官セトはキサラの愛の光によってキッチリ救われているし、『友への詩』までアテムに捧げて後世に遺している(この部分は闇のTRPG内だけの話しではなく史実ですよね?)。じゃあ、現代の海馬のあの酷さと孤独さはなんなんだ?なぜブルーアイズへの執着(キサラへの愛)は都合よく持っているのにファラオとの友情はさっぱり忘れてしまって『友など永遠に必要のないものだ』とか言って、闇遊戯に毎回勝てないんだ??海馬ってほとんど神官セトの生まれ変わりみたいな扱いなのに……。前後の繋がりに一貫性が無さすぎて設定もストーリーも破綻しています。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

現代での闇遊戯には相棒を始めとする仲間がいて、かたや海馬は幼少期に虐待を受けて心に問題を抱えたままであることがいつも勝敗を分けている風に描かれているが、ぶっちゃけ一対一のカードゲームの強さに仲間とか友情とか絆とか関係ない(メンタルの強さは勝敗に影響するだろうが、海馬はメンタルの在り方がいびつなのであってメンタルそのものが闇遊戯より弱いわけではないし戦略や判断のミスも犯していない)。

だからこそ決闘者とカード(モンスター)との間にも絆があるってVS奇術師パンドラ戦でやりだして、わざわざブラック・マジシャンをエースに立てといたわけですよね?しかし肝心のブラック・マジシャンよりも美少女萌えキャラのブラック・マジシャン・ガールの方に人気が集中してしまった。それでアニメシリーズともども、「ファラオの記憶編」に入ってからもずっとブラック・マジシャンをそっちのけに弟子の方をプッシュしまくっている。

いや、だから何がしたいんだよ……??

そうやって主人公側を雑に扱うことで、ライバル側である海馬のメンツも、作品全体としての体面も、全てが保てなくなっていることが分からないか……?人気がとれればそれでいいのか……?

 

 

2.美しいが蛇足感のある「キサラ」

 

海馬は幼少期に養父から受けた虐待が元で、自身の上に立とうとする者は全て叩きつぶさなければ気が済まず、そのために「幻のレアカード」でありM&Wの世界で最強のモンスターとされるブルーアイズに固執していました。 それはカード(のモンスター)への愛ゆえではなく、勝つという執念のため。 だからこそ遊戯から盗んでまで双六の所持していたブルーアイズを手に入れようとしたし、海外の他の持ち主たちから3枚のブルーアイズを奪って手に入れたあとは最強カードを自分以外が持つ必要は無く同じカードはデッキに3枚までしか入れられないため(というより半ば双六への当て付けで)双六のブルーアイズは破り捨てました。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

それを「 実はあれらの卑劣な行為は、全てブルーアイズ(キサラ) への愛ゆえだったんだよ!!」 なんて思い付きをいきなり語られても、 マンガのストーリーとして支離滅裂だし薄っぺらいです。

これが例えば、神官セト自身がずっと虐げられていて唯一の心のよりどころだったキサラを殺されたせいで復讐に走った(憎悪と復讐心を忘れないために例の石版の詩を後世に遺した)とかなら現代でもその因縁が続いているということで海馬のサイコな性格や言動も分かる。(というかサイコな海馬のが個人的に好きです)

しかしファラオの記憶編において、神官セトは少なくとも自分の父親を誇りに思うような育ち方をしており、王宮では神官団の指導者とされるアクナディン(実は父親)に目をかけられ、神官シャダや神官マハードを始めとする同僚の神官たちに対しては異常に支配的に振る舞いやりたい放題。しまいには何の罪もない民衆の中から素養のある人間を探し出して魔物(カー)を抽出して軍備を増強しようとか言い始めます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ここまで自己中心的・冷酷ムーブをやっといて、いざ自分の大切な女が殺されたらファラオを裏切るという(実際に描かれた本編では順番が前後しているが、やむなく変更されたという本来の構想では自分の意思で明確に裏切っていた)……この自分勝手の極みみたいな展開に説得力があるのか……?

さらに、おそらく原作者は民衆から迫害を受けるキサラの姿をマンガの中で描くことで、我々の現実の世界における人種差別の問題をも描こうとしていますが……

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

自分たちを征服しようとする異民族だから憎むとかではなく、ほとんど観念的に、「肌の色が自分たちと違うから」という理由で他人を憎む・見下すという概念……これは近世に入ってから、主には「白色人種から有色人種への差別」として広まったものでは……?

フィクションとはいえ……ですよ。「肌の色で人を憎む」という概念が存在したかもよく分からない古代エジプトの民衆を悪者にして、真っ白な肌と髪で消え入りそうな容姿のキサラが『我々とは異なる白い肌』とか言われながら石を投げられ、一見すると権威主義の冷血漢に見える神官セトが権威によって愚かな民衆を蹴散らし、か弱いキサラをかばう。それも『肌の色ごときで…』とか言いながら。構図としてあまりにも美しいと同時に、それは "出来すぎ" じゃあないでしょうか。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

王宮では仲間に対して思いやりもなく、自分より力が弱い(と自分が思っている)人間を露骨に見下しているようなキャラクターに、正義の水戸黄門をやる資格はありません。

というか民衆の労働によって王族貴族や神官たちの生活が支えられているのに、その民衆を石コロと思ってる奴に道徳を説かれたくないわ。

もちろんどこの時代、どこの国にも差別はあるでしょう。一説によると古代エジプト人は自分たちの赤銅色の肌を出すことを誇っていたそうですから、もしかするとそうでない肌色の人々をもはや観念的に、災いの元とみなして差別していたのかも分からない。しかし少なくとも、古代エジプトに関して特別な知識のない、浅学なただの現代人のいち読者として、私は作中の描写に違和感を覚えました。

 

さらに悪いのが、神官セトの傍若無人な振る舞いをキサラのストーリーによって美化し、最終的に神官セトがファラオにまでなったこと。

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高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ここに来て突然の常識人ムーブ……。平然と仲間の精霊を生贄にして自分の精霊を強化していたキャラクターに『道徳』……?身分の差は古代エジプトの『規律』だから『わずかな民の犠牲など王家の谷の石コロ』という考えも正当だと?王国への忠誠心やアクナディンへの尊敬やキサラへの愛(ゆえに、闇に魂を売らなかったこと)と、上に立つ者としての資質や統治に対する考え方って、まったくの別問題ですよね……。(民をかえりみず軍備の増強を優先させる為政者を作品として肯定するなら話しは別だが)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

おそらく古代エジプト第19王朝の「セティ1世」を意識しての描写だと思いますが、ファラオとなったセトがアテムの意思を継いで、別に好きなわけでも尊敬しているわけでもないような他人の痛みを想像できる人間になったのか、その部分の描写がまったく無いままシチュエーションだけに拘っているので流れが非常に唐突です。

一応、盗賊王バクラや大邪神ゾークとの決戦ではファラオや他の神官たちと連携しながら戦う様子が描かれていましたが、それも途中で投げ出してキサラを救出に向かってしまうし、単に最期の決闘でファラオのブラック・マジシャンを力で蹴散らした(その流れでキサラに諭され正気に返った)だけでは、神官セトが次期ファラオとしての器を備えた人物であることの証明にはなり得ません。

原作者のやりたかったことは分かるが最低限の筋は通さないと、作品としての説得力は落ちます。
(ファラオの地位についたセトが、旧アクナムカノン王墓から神官マハードの亡骸を掘り起こしてアテムの近くに埋葬し直してやるよう家臣に指示するくらいしてればまあ分かるけどな……)

 

 

3.「モンスターカードバトル」と「伏線回収パート」が足を引っ張り合う

 

個人的な好みなどの感情をあえて排して厳しめにレビューするとしたら、この遊戯王というマンガは「カードゲームのマンガ」としても、「キャラクターやストーリーのマンガ」としても、中途半端です。

本作は、たとえば『ヒカルの碁』における囲碁や『スラムダンク』におけるバスケットボールのようにカードゲームを扱うことはできていません。ただ、カードからモンスターが飛び出すという絵があまりにもカッコ良くて人気が爆発したので、TCGの専門家でもない作者が監修もつけず、ルールも曖昧なまま、ただファンからの期待と編集部からの要求に応えようと「カードゲームのようなもの」を描いていたわけです。

それでも初期の頃は、ゲーム展開とキャラクターのバックグラウンド・ストーリーそのものの流れをリンクさせることで「カードゲームはあくまでストーリーを描写するための小道具」として機能していました。だからこそ、ルールも何もないような「言ったもん勝ち」のゲーム展開であってもマンガとしてとても魅力的だった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし、度重なる設定の変更でストーリーに矛盾が生じ、その矛盾を解消するためにキャラクターの設定をいじることでさらなる矛盾が生まれ、そのまま「ファラオの記憶編」に突入。話しは複雑化するが人気を維持するためにカードバトルに近しいようなモンスターの戦闘シーンに尺をさくのでストーリーとしての密度そのものを高めることはできず、「正義とはなにか」「善と悪に境界はあるのか」といった壮大なテーマに対してきちんと主人公の回答を示すこともできませんでした。(テーマへの回答を示すという意味ではアニメ版の方がしっかりしている)

最終的には作者自身の体調不良によって本来のストーリーを大幅に変更・省略せざるを得ず、アニメオリジナル展開はキサラ関連やマナ(ブラック・マジシャン・ガールの代替)など一部のキャラクターにスポットを当て続けた結果、盗賊王バクラや表人格の獏良了神官マハード(ブラック・マジシャン)のようなどうしようもないメインキャラが生まれてしまった。こうした他のメインキャラが雑な扱いで済まされているせいで、本来なら良いアクセントになったはずのキサラ関連エピソードも蛇足に見えてしまう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

城之内と闇遊戯が誓い合った決闘も作中で実現していないし、海馬は神官セトの生まれ変わりのように描かれているのに表遊戯とアテムは完全に別人になってしまったのも作品の世界観として致命的な矛盾をはらんでいます。

アテムと表遊戯のラスト決闘でも相変わらずルールは曖昧だし、これまでずっとエースを張っていたブラック・マジシャン師弟を、サイレント・マジシャン1体ごときにまとめて倒されてしまうという、 "レベルアップした表遊戯が闇遊戯を超える" というシナリオありきのゲーム展開(闇遊戯は意味不明なタイミングでマジシャンズクロスを発動しプレイングミスを犯している)。「遊戯 王」や死者蘇生のカードが示唆するメッセージなどの "ギミック" に頼って表遊戯を真の主人公に推すことでなんとかストーリーを着地させた……というような状態……。

古代エジプトをテーマとした神秘的な世界観や魅力的なキャラクター、マンガの絵として非常にキャッチーなカードバトル、こんなにも粒はそろっているのに料理があまりにずさんで、それが非常に惜しい作品であります……。

多くを求めることを許されるなら、「史実編」というような形で不憫なキャラクターたちが少しでも救済されることを願っています。

 

おわり

劇場版DSODでどうしても「??」と思ったこと。「海馬は死んだ」のか??【感想 考察】

 

※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、他の方の考えを否定したり、作品を貶めるものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。m(__)m

 

 

 

 

1.はじめに

このブログ記事を書いているひとは遊戯の声が緒方恵美だった頃のアニメを見て育ちましたが、それ以降は某動画サイトでネタにされているのを見かけるくらいで、他の遊戯王シリーズにはほとんど触れることなく劇場版THE DARK SIDE OF DIMENTIONS(以下、映画DSOD)を観て遊戯王にハマりました。

観る前:あ〜遊戯王か〜途中で声が変わってカードゲームやるようになってから全然見てないんだよな〜MADとかネタのイメージしかないけど映画なら体力使わないしちょっと見てみるか〜

観た後:ちょ……原作全巻買ってくる

なんの予備知識もなく見に行って一瞬で心を鷲掴みにされ、本作が単発の映画として桁外れに魅力的で優れた映像作品だったことは疑いようもありません。

しかしながら、後追い的に原作を読み進めた私はかえって映画DSODのストーリーに奇妙さを覚え、ハマったきっかけの作品に対して疑問を持つという見事なこじらせを発症。

本稿はなんでそんなことになってしまったのか自分の頭の中を整理する意味での雑記であり、他の方の考えを否定するものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。m(__)m

 

 

2.「世界海馬ランド計画」どうなった ……?

 

原作バトルシティ編の終わりで海馬は養父への憎悪と向き合い 、幼い頃からの本来の夢である「世界海馬ランド計画」 のためアメリカへと旅立ち、メインキャラとしての区切りを迎えています。なので遡って原作を読んだとき、私は映画DSODのストーリーに少し違和感を覚えました。

もちろん、映画DSODでの結末もあり得る1つの未来だと思います。しかしこの映画での後付けのせいで、海馬は結局、目先の勝ち負け( 幼少期に義父から与えられた屈辱・トラウマを思い起こさせるもの) に囚われ続けているキャラになってしまった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画DSODを初めて観終えたときの私は、原作での海馬は闇遊戯との決闘に関してよほど悔いの残る終わり方をした(決着がつかないまま中断してしまったとか)か、他の重要キャラに枠をとられてかなり中途半端なまま本編が終了してしまったのだろうと思っていました。しかし実際に原作を読んでみると……

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『海馬… 今は敗れて憎しみに打ち勝て!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『瓦礫の底に眠る…オレのロード(夢)…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『海馬くんは新たな夢に向かって旅立ったんだね…』

『ああ』

『そして…もう一人のボクの記憶探しの旅も今 始まったんだ!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

あれっめっちゃいい感じに終わってね??!

確かにバトル・シティ編で海馬は闇遊戯に敗れています。そこで海馬は敗北という目の前の憎悪と同時に義父への憎悪とも向き合い、その象徴であったアルカトラズ(憎しみの塔)を爆破し海に沈めました。闇遊戯との決闘も、幼少期のトラウマも、マンガの話しとしてはいったんそこで決着が付いていたはず。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

なのに映画DSODではそんなこと無かったかのように、その憎悪を闇遊戯(アテム)との決着に対する「執着」という形でさらにこじらせている。

あの話しって原作本編が終了から半年後とかの設定ですよね…原作の続編と銘打っておきながら、もうこの時点で原作のストーリーを踏み倒しにきてます。

勝ち負けそのものというより好敵手としてのアテム個人に執着している(アテムが自分に無断で冥界に還ったので躍起になっている)というような解釈は一応成り立つものの、なら海馬はなぜ遠く離れたアメリカでの事業のため旅立ったのかという話しになるし(活動の拠点をアテムのいる日本からアメリカに移す= "アテムに関係なく自分の道を行く" って意味だよな…?)、彼の本来の夢である「世界海馬ランド計画」を放り出してまでアテム個人に執着し続けるというのは、もはや作中に描かれたキャラクターのアイデンティティが崩壊しています。(むしろ同人誌であれば好きな展開です)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画本編とその前日譚である読み切りマンガトランセンド・ゲーム』おいて、海馬はかなり本作的な軌道エレベーターと宇宙ステーションを作りあげ、アテムを地上に蘇らせること、そして次元上昇の方法を探っていました。あれだけ大がかりな宇宙開発を一企業が行うには、社運をかける勢いで巨額の予算を注ぎ込み海馬自身もそれにかかりきりでなければならなかったでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

幼い頃の海馬が弟モクバと誓い合った夢「世界海馬ランド計画」は、次元上昇(アテムのいる冥界へ行くこと)を最終目的としたニューロンズ計画」へとすげ替えられてしまいました。バトル・シティでアテムとの決闘に敗れ、そのリベンジマッチを果たせなかったという理由だけで。

 

海馬というキャラクターの終着点 2020.5.25 追記

幼少時代の海馬は『世界中に遊園地を作ること』が夢だと語っていました。それは海馬ランドという  " 箱モノ "  を作ることではなく、幼少期の自分たちのような施設で暮らす子どもであっても、誰でも、みんなが遊べる空間を作ること。それが海馬の夢です。

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(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そう考えると、最終的な目的は次元上昇にあるとはいえ「デュエル・リンクス」という世界を作りあげたことで、一見すると海馬の夢は形になったかに思えます。「海馬ランド」という前時代的な箱モノ計画が、端末さえあれば誰でも世界中どこからでもアクセスできる、時代の最先端を行くバーチャルリアリティの世界へと昇華されたわけです。となれば、もはや現世に悔いなしと会社を弟に託し、冥界へ行くという流れが生まれてもおかしくないように思えるかもしれません。

しかし、ここで我々が思い出すべきなのは、海馬というキャラクターの終着点、ゴールがそもそもどこにあったのかという話しでしょう。それは、義父にイカサマゲームを仕組んだことをきっかけに捻じ曲げられ、海馬が失ってしまったもの。目的を果たすための単なる手段としてではなく、弟や仲間たちとただチェスを楽しんでいた本来の「心」を取り戻し、幼少時代の純粋な夢を思い出す(叶える)ことです。

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『あの日…イカサマゲームなんかやらなければ…兄サマは昔の兄サマのままでオレのそばにいてくれたかも知れないのに…

『今 海馬は闇の中で自分の「心」のかけらを拾い集めている…』

(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬は単に慈善活動がしたかったわけではない。親はいなくとも施設で過ごした楽しい思い出があるからこそ、自分と同じ境遇の子どもたちとそれを共有したかった、そのための場所が『この施設にいるような 親のいない子供はタダで遊べる遊園地』なのであり、「海馬ランド」です。それこそが、原作DEATH-T編から繋がりバトル・シティ編のラストで提示された海馬の未来、彼のだったはず。

「デュエル・リンクス」の世界に海馬の夢はあるでしょうか……?無いですよね。リンクスの世界は海馬にとって、あくまで次元上昇を叶えるため、アテムとの再戦を果たすという目的のための手段の一つです。これが海馬の夢であり終着点(ゴール)だと言えるでしょうか……?

(おそらく劇場版DSODの制作陣は、というか原作者でさえ、昔に描いたことまで意識して作品を作っていないし、当ブログみたいに細かいことをいちいち気にしてその場のノリで全てを楽しむことができないようなタイプの読者・視聴者をこのコンテンツは相手にしていないと思います。言ってしまえばこのブログ記事そのものがナンセンスです。ラーメン屋に入ってパスタを要求しているようなものなので…。パスタを食いたいならサイゼ行けばという話し。)

 

 

3.「原作の続編」としてこの映画を作った意味……?

 

映画DSODの海馬は一見すると超ストイックに自分と向き合っているようでいて、闇遊戯に "敗北した" という事実と向き合えておらず、打ち勝てていない。敗北した自分を受け入れられない、許せないからこそアテムの影に囚われ、再戦を願う。これでは義父の呪縛にも未だ囚われたままということになりませんか?

他のキャラクター達は未来へと一歩を踏み出していく中で、海馬だけがアテムとの勝ち負けにいつまでも執着し続け、最後は自身のを担う会社も大切なも全てを置き去りに、冥界へ行ってしまう。

結果として海馬は好敵手アテムとの決闘に全てを捧げました。この映画のストーリーは胸躍る熱い物語であり、ラストシーンは壮絶で感動的であり、海馬の人生は痺れるようなカッコイイ生き様です。しかし、「原作の続編」と銘打ってこの話しをやる必要があったんでしょうか??(エンドロールの後で冥界から無事帰還する海馬の様子が描かれてたならまだ納得できた)

 

目的のためには手段を選ばず、命すら投げ出してしまう海馬の姿勢は、ヒロインである杏子によって一度完全に否定されています(この時の海馬は自分のためではなく弟のモクバを救うために闘っていました)。王国編でのそのシーンは作品テーマに関わるものであり、読者への提示でもあったはずです。『どんな時でも自分の手の中で命のチップを守り続ける』、つまり表遊戯のような人こそが本当に勇気ある芯の強い人なのだと。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この海馬の生き様もまた強さの一つだと言うなら、原作の続編を銘打った映画として、過去に作中で描いたことに対する反論をしっかりと筋を通して描くべきではないですか? (映画DSODでその海馬の生きざまが肯定的に描かれたこと自体はすごい嬉しかったです。)

仮にアテムとの決闘に勝ち、冥界から帰還できたとして、長い人生の中では負けることもある(それでも憎しみに打ち勝っていかねばならない)ということに海馬は耐性が無いままです。その様な状態で、海馬は王国編やバトル・シティ編をやっていた当時から成長したと言えるのでしょうか……?ましてや冥界に行ってそれきり(現世の人からすれば海馬は亡くなった)という最期で筋が通るでしょうか……?

というか古代では(やむなく変更されたという本来の構想では)キサラの復讐のためアテムを裏切り、現代になると今度はアテムのために全てを投げ出し、やっていることが少し刹那的すぎやしませんか……?

もちろん神官セトと海馬はまったくの同一人物というわけではないし、海馬の幼少期からの傷痕がそんなすぐに癒えるわけもないでしょう。それでも海馬の人生はカードゲームのためにあったわけではないし、 闇遊戯との決闘に負けたことで人生そのものをつまずかせてしまうようなキャラでもない、だからこそ弟のモクバと共にアメリカへ旅立って行ったのではなかったですか?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬と闇遊戯のそれぞれの闘い、闇遊戯は自分探し(記憶をめぐる闘い)、そして海馬はこれからも「義父への憎悪」と向き合っていく。勝負には負けたとしても憎しみに打ち勝っていくため、『己の中に巣食う憎しみという魔物』との終わりなき闘いのロードを歩み続けるため。闇遊戯に勝った負けたとかよりも、もっと大きな目標、本来の海馬自身の本当ののために。

 

 

4.海馬は冥界に行ったたま帰ってこない(死んだ)のか?

藍神との決闘が終わりアテムがまた冥界に帰って行った直後のシーン。海馬は表遊戯のことを一人の決闘者として認め、微笑みをたたえて去っていきます。そこでの様子から、自分が認めた強い相手との決闘を楽しむというような心はどこかに芽生えている印象を受けました。しかしやはり、そもそもの海馬の人生の目的は強い相手と決闘をすることでも、アテムに決闘で勝つことでもましてや愛だとかのためでもない。

海馬は未来へと進むために冥界へ行ったはずです。

アテムとの決着のため冥界へと突撃していくラストシーンは、このまま過去(アテムの影、敗北=死という呪縛を海馬に植え付けた義父の影)に囚われながら生きるくらいならリスクを冒してでも冥界へ行くという海馬の未来への意志であり、決してゴールではない、再出発のスタートラインです。

未来へと一歩を踏み出していくキャラクター達を描いたこの映画のテーマに対する回答があのラストシーンであるなら、海馬は冥界へ行った後(アテムとの決闘の勝敗がどうであれ)現世に帰還しなければならないと当ブログは考えています。(これは当ブログが勝手にそう考えているというだけの話しであり、他の方の考えを否定するものでは決してないです)

弟のモクバに後を託すような言動が随所で見受けられますが、トップとして優秀な人ほどもしもの場合を考えて手を打っておくものだと思います。弟に自分がいない間の会社を託すことと最悪の場合は死をも覚悟していること、この二つは矛盾しません。

ラストシーンで海馬が冥界にたどり着きアテムと出会ったところで物語の幕が下りるのは、そこでの決闘を最期に海馬の人生(ストーリー)も終わるということではない、ここまできてアテムと海馬のどっちが勝つとか負けるとかの話しをするのは野暮であり描く必要がないので、勝負の行方を視聴者にゆだねるための演出上の構成でしょう。

 

原作者によって提示された『ひとつの未来のストーリー』

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス)

原作者のインスタグラムで公開されたイラスト等をみるに、原作者個人の中では海馬は冥界に行ったまま帰らない=死んだ…のではなく、現世で表遊戯(自分が認めた相手)と新しいゲームの世界を創造していくというような未来が想定されているようで、個人的にはかなり安心しました。そうそう!!それだよそれ!!!!ありがとうマジで!!!

原作者は例のイラストを公開した自身のインスタグラムで『これもひとつの未来のストーリーです』とコメントしていますが、その真意はおそらく(多分)、劇場版DSODのラストシーンは観る側に解釈を委ねるように描かれているのに原作者が結末を提示して受け取り手の想像を縛ってしまう……という事態を避ける意図があったでしょう。あのインスタグラムの世界はいわばファンサービスという文脈の中で原作者が個人的に描いたイラストを公開したものであって、正規のプロの仕事としての表現ではないし、そういう方法で作品を補足するというやり方は王道ではありません。

しかし当ブログは原作者が提示したひとつの未来をめっちゃ支持します。

 

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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜後編〜

 

 

3.テーマの転換「勧善懲悪から、平和主義へ」

 

「罰ゲーム!」悪人を裁くダークヒーロー

前述の通り、もともとの闇遊戯はダークヒーローであり悪を裁く「正義の番人」でした。
ゲームのルールという見えないパワーで悪人を殴り倒す。それが連載当初の本作のテーマです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ここでの悪人とは絶対悪であり、同情の余地がないよう徹底的に悪く描かれます。悪ければ悪いほど、そんな悪人の卑劣な横やりで遊戯たちの友情は壊れはしないことの証明になる。主人公が体現していたのは勧善懲悪の物語でした。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

「善も悪もない」亡国のファラオ

闇遊戯の設定が変更され古代エジプトのファラオ」になったことで、当初の「勧善懲悪」路線はガラリと変わりました。

「ファラオの記憶編」において、闇遊戯(アテム)の父親である先王アクナムカノン治世下でのクル・エルナ村虐殺など為政者の負の側面が強調され、やがてアテム治世下の第18王朝は、虐殺を生き残った復讐者「盗賊王バクラ」の出現により崩壊を始めます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

悪人に報復し裁きをくだす側だった闇遊戯が、今度は報復され裁かれる側になっているのです。盗賊王バクラは、この世には善も悪も無い、ただ自身の正義を「善」と主張し合うだけだと言ってこれまでの闇遊戯の「勧善懲悪」的な正義を否定しました。

原作者の反権力思想や反戦思想が反映されたためか、ファラオとなってからの闇遊戯は「善とはなにか?悪とはなにか?自分は本当に正しいのか?」と迷うように描かれます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この「視点が変われば正義も変わる、それを決め付けるところから争いが生まれるのだ、よって善も悪もない」というようなリベラル風の平和主義は、「友情」というものに絶対的な「善」属性を付与し、一方でそれを踏みにじる者には絶対的な「悪」属性を付与してそれを主人公に倒させてきた原作者自身の作風とは相性が良くありません。

多角的な視点からの描写に成功しているというよりは、単にテーマが散らかっていて主人公の言動が二転三転しているように見えるのです。

しかし結果として正統派ヒーロー色が強くなったことで、闇遊戯との別れは爽やかなものになり、物語としての後味は非常に良くなりました。(たとえ相手が悪人であれ、他人に報復するヒーローは最終的に幸せにはなれないのが正統派少年マンガのお約束です。そうでないと復讐を肯定することになってしまうので……。)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

後に文庫版が出版された際、原作者はあとがきで『千年パズルの中で、悪として融合しようとするゾーク(略)』とコメントしています。この後付けによって実質、当初の闇遊戯はゾークの悪に半分染まっているうえ記憶喪失中だから本来のアテムではない(本来のアテムは一方的に「悪」を決め付けて裁くことはしない)というような意味合いに作品が上書き修正されました。

 

4.闇遊戯から「墓を守る番人」を受け継いだブラック・マジシャン

 

墓を暴く罪人を罰する、正義の「番人」だった闇遊戯

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

"墓を守る番人もいれば …墓を暴く盗賊もいる"

このシーンが描かれたのは、闇遊戯が実は古代エジプトのファラオだと発覚するよりはるか以前のモンスター・ワールド編。本作がカードバトル中心の長編をやり始めるより前のことです。

注目すべきなのは、この時点で「番人」とは闇遊戯のことを指しており、「盗賊」である闇バクラと敵味方で対のように描かれていたことです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇遊戯が「墓を守る番人」だったからこそ『千年アイテムは王墓をあばき財宝を盗みだす罪人を裁くために生みだされた』という設定が最初に描かれたのであり、そのステージである王墓は『盗賊を地獄へいざなう死と闇の遊戯なのです。罪人を裁き罰を与える =『罰ゲーム』です。

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『それらは古代の王に仕える魔術師達によって「王墓をあばき財宝を盗みだす罪人」を裁くために生みだされたもの…』(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『盗賊にとっては地獄へ誘う死と闇の遊戯場…』(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし途中で設定が変更され、闇遊戯は古代エジプトのファラオ」だということになります。つまり「墓を守る番人」ではなく「墓の主」の方。

そこで、空いてしまった「墓を守る番人」ポジションに、あとから据えられたのが「神官マハード」です。だからこそ彼は「王墓の警護隊長」として登場し、死と闇の遊戯場である「王墓で」盗賊王バクラと対峙しなければならなかった。


 神官マハードをとりまく "いびつ" な設定

ブラック・マジシャンは「闇遊戯が最も信頼するエースモンスター」という設定に途中からなったのだから、そのルーツとされる「神官マハード」もファラオの右腕の魔術師のような人物像にしないと、なぜ現代で闇遊戯が最も信頼するモンスターが三体の神ではなくブラック・マジシャンなのかイメージが掴みづらいです。古代エジプトでは、ファラオの代理人として魔術的修行を積んだ神官に政治をさせていました。)

しかし、神官マハードは現ファラオのいる王宮ですらない、王墓の警護隊長。しかも王墓の内部に罠を仕掛けるのは墓職人だけの仕事で、外側の警護は人間の兵士による人海戦術。神官マハードが魔術師(精霊魔導士)である設定とも噛み合っておらず、設定の一つ一つがバラバラでどことなく "いびつ" です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまり、現代において千年輪 = 千年リングには闇バクラの人格が宿っているので(あとアクナディンを闇堕ちさせるきっかけを作るため)、手っ取り早くつじつまを合わせるために「神官マハードが王墓で盗賊王バクラと対決し、千年輪を奪われ、ブラック・マジシャンになる」というシナリオはもはや決まっていた。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

初期の闇遊戯が負っていた「番人」のポジションを、後に闇遊戯のエースモンスターとなったブラック・マジシャン=神官マハードが受け継いだと考えると、確かに熱いものがあります。

しかしながら、率直に、「ファラオの記憶編」での神官マハードの描かれ方は極めてずさんだったと言わざるをえません。キャラクターを "立てる" ことなど二の次、あらかじめ決まっているシチュエーションありきの稚拙なストーリーテリングです。

まず王墓の警護隊長なんていかにもな立場で登場させておきながら「近頃、王墓が頻繁に荒らされている」というよく分からない流れがキャラクターに対して無神経だし、どうせ殺すならその魔力をマナに譲り渡すとかして(ブラック・マジシャン・ガールの設定でありましたよね……)千年輪を弟子に託していく展開ならまだ同情の余地もあったものを、突然ひとりで盗賊王バクラに戦いを挑み、壁抜けの能力があると発覚したばかりの相手を王墓に閉じ込めようとし、案の定バクラは王墓から脱走し千年輪は奪われ、復活してからまたバクラに挑んでは結局ピンチになって弟子に助けられ、作者側のストーリー展開の都合でさんざん仲間の足を引っ張るよう描かれてまともな挽回シーンもなし。正直ここまでに扱われているエースというのは見たことがないです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

非常に展開を急いでおり、限られたページ数の中で「ブラック・マジシャン誕生」のエピソードと同時に「千年リングと盗賊バクラ」のエピソードも段取り良く消化したかったという意図が見え隠れします。

原作者は神官セトとキサラ、海馬とブルーアイズの描写には一定のこだわりを見せ続ける一方で、アテムが千年パズルに魂を封印されている間にマハード(魂と精霊が融合し不死となっている?)は何をしていたのか、アテムが冥界へ還ったあとマハードはどうなったのか(アテムと共に冥界へ還ったのか?表遊戯のいる現代に残ったのか?)さえ、一切の描写を放棄しています。

そこに原作者のキャラクターへの誠実さや愛着を感じることは、残念ながらできませんでした。

 


5.タイトルに込められた意味。「遊戯(の)王」から「遊戯(と)王」へ


前述の通り、初めの頃の本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。

遊戯王というタイトルは、主人公の遊戯があらゆるゲームに精通し、あらゆるゲームで強く、ゲームで悪人を倒していく姿を王者にたとえたもの。ゲームの王、「遊戯(の)王」です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

やがて本作はカードゲームのみを扱うようになり、「遊戯(の)王」というタイトルが微妙に合わなくなってきます。カードゲームは数あるゲーム(遊戯)の中の一つでしかありません。主人公がゲーム全般の達人ではなくあくまで決闘者(デュエリストであり、漫画としてカードゲームだけを専門で扱うならタイトルは決闘王(デュエルおう)の方が相応しいでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかも表遊戯と闇遊戯は実は別個のキャラクターで闇遊戯はファラオ(王)だという話しになり、本作の  " タイトルと内容のちぐはぐ感 "  はいよいよ致命的なものに。

遊戯がゲーム全般の王様的プレイヤーだという概念が主な読者層にほとんど忘れられ、もはや王といったらファラオを連想する、なのに本来の「遊戯」である表遊戯が王(ファラオ)なわけではない闇遊戯は王(ファラオ)だが本当は「遊戯」ではないじゃあこのタイトルの「遊戯王」というのはいったい何を表しているのか??

そこで出てきたのが、『遊戯 王』という新たな解釈です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまりこのタイトルの遊戯王」とは、遊戯と、王(ファラオ)、二人の主人公である表遊戯と闇遊戯を表しているのだと。すごい。めちゃくちゃキレイにまとまりました。

このタイトルは、物語を読み進めていくと最後に意味が分かるよう作者によって最初から仕組まれたもの……ではありません。あくまで後付けです。前述の通り、当初の闇遊戯は正義の番人(墓を守る番人)として描かれていたわけで、一番最初の構想段階からファラオ(墓の主)として作られたキャラクターではないことは明白です。(最初にファラオとして登場するためにデザインされたキャラクターはマリク・イシュタールではないかと予想しています。「マリク」はアラビア語で「王」を意味します。)

1999年12月にプレイ・ステーション用ゲーム「封印されし記憶」が発売されているので、遅くとも原作の王国編の終盤あたりかバトル・シティ編の導入部分が描かれた頃には闇遊戯をファラオにする構想が決まっていたでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 

本作がカードゲーム中心になったことでどうしようもなくその内容と剥離してしまっていた作品タイトルに「遊戯(と)王」という新たな解釈を吹き込むことで、原作者は見事に最終回をまとめあげました。その手腕とひらめき力には、長年の連載で揉まれ続けた原作者の、プロとしての意地を感じました。

おわり

★前編はこちら★

rootm.hatenablog.com

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闇遊戯が「罰ゲーム!」から「ファラオ」になったことで変わった5つのこと 〜前編〜

 

 

 1.成長の意味。人格「統合」から、「分離と自立」の物語へ

 

悪を裁く正義の番人「もう一人の遊戯」

遊戯王の原作マンガが連載を開始した当初、本作はカードゲームだけではない多種多様なゲームを扱う作品でした。
言うなればカイジ『必殺仕事人』を足してオカルト要素を融合させたヒーローマンガです。

主人公の武藤遊戯はゲームが好きな大人しい少年ですが、仲間や家族に危害が及ぶと人格が豹変します。そして悪人を相手に危険なゲームをもちかけてボコボコに負かし、敗者に恐ろしい「罰ゲーム」を科して廃人にしてしまう。いわば勧善懲悪のダークヒーローだったのです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

ちょっとした賭け事から本格ボードゲームまで、どんなゲームも遊戯に敵う者はいない。彼はゲームの王様だ!
遊戯王というタイトルは元々このような意味合いからきています。

連載当初の本作は「普段は気弱な主人公が悪人の前で豹変して強くなる」ことにカタルシスを覚えさせる構成になっていました。これがあるから普段のやさしい遊戯がマンガとして映え、普段の遊戯が気弱だからこそ豹変した時のギャップが際立つ。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

つまり、表の遊戯も、もう一人の遊戯(闇遊戯)も、どちらも正真正銘、武藤遊戯でなければこの話しは成り立たない。
月野うさぎセーラームーン(プリンセス・セレニティ)が実は全く関係ない別人です、では「美少女戦士セーラームーン」という作品は意味がないのです。

ここで重要なのは、当初、主人公の遊戯は「二つの心を持つ」一人の少年という設定だったことです。

これは厳密な意味での二重人格とは異なります。「1つの体に2人分の人格が存在している」のではなく、「あの人って性格にうらオモテあるよね」みたいな意味での俗にいう二重人格、本人ですら知らない自分の「もう一つの心」がものすごく強調され擬人化されて内に秘められているような状態。一般的に多重人格者はそれぞれの人格が別人を自称しますが、表遊戯も闇遊戯も自分を「武藤遊戯」と思っており、その様に振る舞います。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

闇遊戯はごく稀なケースを除いて、表遊戯(自分)を守るために現れるわけではありません。仲間や家族に危害が及ぶと「よくもオレの(ボクの)大切な人を傷つけたな!」と言って出てくるのです。これは主人公が悪人に報復することの正当性を担保し、ダークヒーローものとして作品を成立させるために重要なことです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社


「もう一つの心」を受け入れる

最初のころ、周囲の人々は遊戯の「もう一つの心」のことを知らないので「なんか雰囲気が変わったな」などと思いながら接するのですが、表遊戯はだんだんと自分の中の「もう一つの心」の存在に気がつくにつれ『こんなボクを知られたら皆んな離れていってしまうんじゃないか……』と不安を覚えます。そしてDETH-T編の終盤でその不安はピークに。

ここで注目すべきは、表の遊戯はこれを自分自身の問題として苦悩していたことです。自分が何か悪霊に取り憑かれているとか、千年パズルに宿った悪の人格に体を乗っ取られているとかではなく、あくまで自分自身の心の問題としてです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

これは「普段は見せない自分の一面を知っても、他人は自分を受け入れてくれるのか」という普遍的なテーマに通じます。普段は閉ざされたその人の一面を「もう一つの心」として擬人化することで、少年マンガらしい熱く爽やかな表現に成功しています。

DETH-T編を乗り越えて表の遊戯は自身自身と向き合い、「もう一人のボク」を受け入れます。この時はじめて仲間たちは表の遊戯がもう一人の遊戯へと変貌する瞬間を目撃し、それでも「遊戯は遊戯」として主人公を応援するのです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社


作品の結末を分けた、大きな方向転換

千年パズルの闇の力について、ストーリー序盤では深くは触れられず、闇遊戯は「千年パズルの力によって武藤遊戯の中から目覚めた、もう一人の遊戯」として描かれていました。

千年パズルについて踏み込んだ内容が初めて描かれたのは、エジプト発掘展を舞台としたVSシャーディー戦です。ここではぼんやりとした象徴的な意味合いながら、千年パズルの真の力と物語の結末の一端が示唆されています。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この「表と裏がひとつになる」という表現を、「表遊戯と闇遊戯が友情を育んで "相棒" になる」とか抽象的に解釈することはいくらでもできます。しかしそれは既に描かれた結末を知っているからこそ出てくる逆算的な発想です。主人公の成長物語としての本作は、当初は異なる方向性が提示されていました。

つまり、分裂してしまった表の遊戯ともう一人の遊戯(闇遊戯)が一つになり、表でも裏でもないただの遊戯になることこそが物語のゴールだった可能性が非常に高いです。 (最終的には映画DSODみたいな見た目と雰囲気になったのか…?)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

上の引用画像は王国編の序盤あたり、80話目でのワンシーンです。もしも最初から「表遊戯と闇遊戯がそれぞれ別人として自立し、別れる」ことを想定して描かれていたのなら、このような描写は絶対に出てこないはずです。だって二人の遊戯が自立しなければならないなら、「それ全部が遊戯で、そのままでいい」わけがないですよね。この時点では杏子はまだ闇遊戯の正体を知らないから…と解釈すれば確かにつじつまは合いますが、それはあくまで  " 後付け "  的な解釈です。このシーンは杏子が遊戯に語りかけると同時に読者への提示でもあるわけですから、少なくとも「それ全部が遊戯」という台詞だけは変更されていなければマンガのストーリーとしておかしい。

つまり、本作は少なくとも王国編の序盤くらいまでの時点では、現在とは別な結末が想定されていたということ。人格の「統合」です。

これは闇遊戯がもともと表遊戯の心の中から出てきた存在で、千年パズルの力はあくまできっかけに過ぎない、どちらも正真正銘「武藤遊戯であることが前提の話しです。

自分で自分がよく分からない、恐ろしい敵に立ち向かうためには「強い自分」が必要、みんなと仲良くいるには「やさしい自分」のままでいい。そういったバラバラのパズルのピースのような状態にある未熟な心と向き合い、組み上げて、「自分」という1つの完成形に向かうための物語。まだ誰も完成を見たことがないパズルの真の姿こそが本当の「武藤遊戯」です。

しかしご存知の通り、ストーリーが進んでいく途中で闇遊戯の設定は大幅に変更され、彼は武藤遊戯とはもともと別の存在である、古代エジプトのファラオの魂」であることが明らかになります。下の引用画像はまさに、杏子の心情を借りてこれまでの設定と今後の変更点を読者に説明しているシーンと言えるでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そこで提示された、また別の方向性。それが本作の最終話に描かれた二人の遊戯の結末、「他者との分離」そして「自立」です。

自分と他人の境界があいまいで自他を切り離せない、他人の心が分からなくて不安になる、自分にはない他人の良さを羨む、他人と離れたくない、そういう未熟な状態から、「自分は自分」「他人がどんな道を選ぼうと、それは他人の選択」という、自立した状態になることがゴール。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

これはあくまで、闇遊戯はもともと外からやってきて武藤遊戯の心の中に間借りしている別個な存在だというのが前提です。

「統合」と「自立」。これらは途中でキャラクターの設定が変更されたことでストーリーの方向性が変わったものであり、どちらの状態が上とか下とか、良いとか悪いの話しではありません。
主人公がアイデンティティを確立する成長物語であることに変わりはないのです。

(余談:本作がカードゲーム中心の長編をやり始めると必然的に、もともと敵とのゲームパート担当だった闇遊戯が出ずっぱりになります。何話もかけて1つのデュエルを描くので漫画の構成上、仕方ないのですが、一話完結のスタイルが崩れて表遊戯の出番が激減したことについて原作者自身は「表遊戯が闇遊戯の影に隠れている」と捉えていたようです(構成が悪いのであって、これを問題視するならブラック・マジシャンとかも弟子の影にがっつり隠れていることになるのですが)。表遊戯はもっと前に出なきゃいかん!と原作者が考えたことから、表遊戯が闇遊戯を超える→自立するという結末に至ったことが、その後の本編の流れや文庫版のあとがきで書かれた原作者のコメントなどから推察されます。)

 

2.ヒロイン杏子との恋の行方

もともと、表遊戯は幼馴染みの杏子のことが好きです。
一方、杏子が恋しているのは闇遊戯です。バーガーワールドで凶悪犯の人質にされてしまった杏子は、自分を助けてくれた名前も姿も分からない人に恋をします。それが闇遊戯、千年パズルの力によって遊戯の心の中から目覚めた「もう一人の遊戯」でした。

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 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

最初の時点では杏子が闇遊戯に恋していること自体べつに問題なかったわけです。だって表遊戯も闇遊戯もどっちも「遊戯」だから。どうも最近杏子には好きな人ができたらしい…遊戯は当然ショックですよね。しかし、杏子が恋しているのは実は遊戯なのです。この絶妙なすれ違いの両片思いが良かった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この杏子の恋心の揺れ動きは、特に異性として意識したこともなかった幼馴染みの意外な一面を知ったことで一気に恋に落ちるという、ラブコメの鉄板とも捉えることができます。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

杏子の想いが闇遊戯の方に偏っていること自体が、ストーリーの伏線でした。表と裏が一つになる過程で、杏子は遊戯の一面のみを見るのではなくその二面性を含めて「遊戯は遊戯」としてあらためて好きになり、晴れて結ばれる。当初、原作者はそんなような展開を意識していたのではないでしょうか。

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『いいの!遊戯は遊戯じゃない!それは最初は…でも……表とか…もう一人とかなんて関係ないんだよ!それ全部が遊戯なんじゃない!』 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『決闘者って………みんな二面性を持ってるのかな………』(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

しかし、実は表遊戯と闇遊戯はまったくの別人で、魂から別だという話しになってからは事情が変わってきます。表遊戯と杏子と闇遊戯は恋の三角ということになってしまい、大分めんどくさいことになりました。

「闘いの儀」が行われる前夜に杏子はクルーズ船の遊戯の部屋を訪れましたが、出迎えたのは表遊戯だった。さすがに「最後にもう一人の遊戯と話しがしたいから変わって(今私が話したいのはあなたじゃない)」などとは言えず、「本田のお腹の薬を貰いにきた」と嘘までついて、杏子はそのまま部屋を出ます。とても健気です。

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 (©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

アニメ版では少し異なるのですが、杏子は「闘いの儀」の最中もずっと闇遊戯(アテム)を気にかけています。(原作者的にバランスをとりたかったのか、城之内はどちらかというと表遊戯の方を応援している)

このこじれた関係を最後まで上手く方向修正することができなかった結果、杏子は闇遊戯(アテム)に恋心を打ち明けることさえできず、原作本編は終了してしまいました。

★後編に続く★

rootm.hatenablog.com

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