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セトって次期ファラオとして相応しいんか…??王の記憶編までを読んで、うーん…と思ったこと【遊戯王 原作 DM 漫画 感想 ストーリー考察 史実 古代編】

 

※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、作品に対してガチで貶めたり叩くような意図は決してないものの、考察としての批判的な内容(あとちょっとグチ)が含まれています!

 

 

 

 

 


1.最強モンスターのブルーアイズを使っても闇遊戯に勝てない、なぜなのか

 ブルーアイズ(白き龍)って古代エジプトでは『 ファラオの三幻神をも凌駕せん力 』とか言われていて、ブラック・マジシャン(マハード)なんか手も足も出ずに蹴散らされてるわけですよ。

 あれだけ宿命のライバル感出して引っ張っておいて、いっそバカバカしさすら感じるほどあっけない決着。闇のTRPG内での出来事であって本当の史実ではどうか分からない。でも原作本編で描かれた事実はそれだけ。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 しかし現代の海馬はというと、M&Wの世界で最強のモンスターカードとされるブルーアイズを3枚も使っているのに闇遊戯のブラック・マジシャン(を主力とする)デッキに勝てない。環境デッキ使ってるくせにファンデッキに勝てない(※例え話し)みたいな状態……。

 一見するとこれだけでもう、闇遊戯と海馬の実力の差はハッキリしているように見えるが、原作者としては海馬がいつも勝てない原因を『 カードと心をひとつにすれば 』とか『 友の力』とか『 憎しみという魔物 』のためということにしたい。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 つまり、海馬は己の力しか信じず最強に固執し、人と人との繋がりを軽視するので、憎しみに囚われてしまい、実力は拮抗しデッキパワーでは勝っているはずの闇遊戯に、友情や信頼や結束…つまり絆の力で負ける。その話しの構造こそが「決闘者の強さとは単なるカードパワーや非情さではない」という一つのテーマを象徴しているのだと。

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『オレの 最強を誇るデッキ…最強のしもべ…』

『だが… 負けた…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 この話しの流れから、なぜ海馬とブルーアイズのや関係性などの絆のバックグラウンドを闇遊戯の記憶編で掘り下げる(その前振りのため、神を生贄にあえてブルーアイズを召喚するという特別な演出を与える)という話しになるのか? しかも闇遊戯とブラック・マジシャン……つまりファラオと神官マハードとの信頼関係は大して深く描かれず、駆け足の説明で済まされているという有り様です(アニメでは多少補足されたが)。

 ではアテムが神官セトとの決闘にあっさり負けたのは、現代へと繋がるアテムと神官マハード(ブラック・マジシャン)の信頼よりも神官セトとキサラ(ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン)の愛の方が強かったからで、現代の海馬が闇遊戯に勝てないのは信頼や愛など絆の強さが一つの原因というよりほぼ純粋に決闘の実力で負けている、ということでいいですか? 違いますよね。海馬が闇遊戯に勝てないのは、義父への憎しみに囚われるあまり勝つことそのものが目的になってしまい、ゲーム(決闘)をすることにおいて大切な愛情や人と人との繋がり(弟のモクバ以外)を蔑ろにするからでしたよね?

何がしたいのか分からないです。明らかに配分というか、バランスが狂っている。

 というか、とにかくキサラを描きたい、神官セトには泥を被せたくないという意気込みだけは伝わってきました。

 時系列で見れば、海馬は前世ではブルーアイズを、つまりカードを愛していたのでアテムに勝ったが、現代ではそれを失っているので負けた……ということで一応つじつまは合うものの、そこに力を入れてファラオの記憶編を描きたいならもう海⭐︎馬⭐︎王でよくね?という話し。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 キサラの死と愛が巡り巡って神官セトを助け、彼は改心してアテムに『友への詩』まで捧げて現代に石版を遺しました。しかし現代の海馬はというと『友など永遠に必要のないものだ』とか言っていて、闇遊戯から『貴様が負けたもの…それは己の中に巣食う憎しみという魔物だ』とか説教までされています。正直、こういう主人公の上から説教ムーブを気味が良いとは思わないが。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 しかしその一方で、キサラを殺され憎しみの闇に支配されていた(その心の隙をつかれ、父親であるアクナディンに精神を支配されてしまった)はずの神官セトは、アテムの信頼するしもべであるという設定のブラック・マジシャンをあっけなく蹴散らしています。神官セトは操られていてアテムの心は負けていないので決闘の勝敗は決まっていないとでも言うのでしょうか?

 前後の繋がりに一貫性が無さすぎて、ストーリー漫画としてのテーマが全て破綻しています。

 

 

2.原作者のイデオロギーと特定シチュエーションへのこだわりが奏でる不協和音

 

美しいが蛇足感のある「キサラとセト」

 キサラを絡めた三つ巴の構想を加えたことで本編のバランスが全体的に崩れてしまい、必要以上に話しが複雑化している感が否めません。

それだけならまだしも、過去に描いてきた海馬というキャラクターのコンセプトをまるごと無視してそのルーツを悲恋の前世ロマンスにすげ替えてしまったうえ、ただでさえ原作者の体調不良で巻きが入っているのにキサラと神官セトにページ数を割いてしまって他のキャラクターたちの描写がお留守。

 初期からの悪役である闇バクラのルーツは突貫工事のようなこじ付け設定でうやむやにされ盗賊王バクラはいきなり消滅。表人格の獏良了は闇人格と向き合う機会さえ与えられず放置。人数合わせで登場してきてあっけなく死ぬだけの神官団。主人公であるファラオとそのエースモンスターである神官マハードのエピソードですら駆け足の説明で済まされ というか適当に省かれ…… 闇遊戯の言う『カードとの絆』やそのルーツの話しまで描写が到達していません。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

↑ 作中、闇遊戯の主張する(決闘者と)カードとの絆 とやらが最も印象的かつ象徴的に描かれ続けているのは海馬とブルーアイズであると言っても過言ではない。

 キサラというキャラクターそれ単体は極めて美しく完成されているのですが、このマンガでいきなりそのエピソードをやることが原作者の趣味と一部ファンへのサービス以外に意味がなく、他の重要なキャラクターたちの描写を圧迫しているばかりかキャラクター本来の性質を半ば捻じ曲げています。マンガの話しとして致命的なほど一貫性と整合性を欠いてしまっているのです。

 

海馬がブルーアイズに固執する理由…?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 海馬は幼少期に養父から受けた虐待が元で、自身の上に立とうとする者は全て叩きつぶさなければ気が済まず、そのために幻のレアカードでありM&Wの世界で最強のモンスターとされるブルーアイズに固執していました。 それはカード(のモンスター)への愛ゆえではなく、勝つという執念のため。

 だからこそ遊戯から盗んでまで双六の所持していたブルーアイズを手に入れようとしたし、海外の他の持ち主たちから3枚のブルーアイズを奪って手に入れたあとは最強カードを自分以外が持つ必要は無く同じカードはデッキに3枚までしか入れられないため……というより半ば、カードを譲らなかった双六への当て付けで、不要な双六のブルーアイズは破り捨てました。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 ただブルーアイズを(キサラを)独り占めしたいだけならカードを破る必要はなく、鑑賞用のコレクションにでも加えれば済む話し。双六のものだったから……いわばセトを裏切ったから破った……と深読み(後付け設定からのこじつけ)出来なくはないものの、他の3枚だって元々の持ち主から奪ったもので状況は同じです。このシーンが表現していたのは海馬の冷酷さ、カード(のモンスター)やゲームそのものへの愛情を持たずルール無用でひたすら勝利に執着する悪役としての、海馬のキャラクター性でした。

 彼は最強カードであるブルーアイズを手に入れるためなら犯罪すらもいとわない悪人であり、人間としては最悪ですが悪役としては筋の通ったキャラクターでした。その背景には養父からの虐待があり、そうした幼少期の過酷な体験があったからこそ、勝利(のために絶対必要な最強カード)に対する歪んだ執着を持っていたのです。だからこそ、自分にはもはや必要のない4枚目のブルーアイズを持ち主の目の前で破り捨てることもできる。というか、少なくとも途中まではそのように描かれていました。

 それを 実はあれらの卑劣な行為は、全てキサラ(ブルーアイズ)への愛ゆえだったんだよ!! なんて思い付きをいきなり語られても、 マンガのストーリーとして支離滅裂だし薄っぺらいです。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

↑ カードを破り捨てる海馬。闇遊戯にマインドクラッシュされる前と後とでキャラクター性が異なるとの見方もあるようだが、実際はほとんど変わらない。もともと海馬にとってカードの価値とはレアかレアでないか(強いか強くないか)であり、ずっと彼のアイデンティティは勝つことに対する異常なまでの執念だった。

 これが例えば、古代エジプト(前世の時代)で唯一の心のよりどころだったキサラを殺されたせいで神官セトは復讐に走り、憎悪と復讐心を忘れないために例の石板の詩を後世に遺したとかだったらまだ分かるんですよ。

 実は「友への詩」だったなどなんでもかんでも友情で片付けるひねった善人オチではなくもっとストレートに「遊戯と海馬の対立の運命を示唆する石板」であるとかだったなら、現代でもその因縁が続いているということで、神官セトの生まれ変わりである(?)海馬が強さ固執する理由としてキサラの存在が文脈的に自然です。海馬の非情な言動やサイコな性格の理由付けにもなる。(それでも若干唐突だが…。というかサイコな海馬のが個人的に好きです)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 しかし実際に描かれたファラオの記憶編において、神官セトは少なくとも心のよりどころとして自分の父親を誇りに思うような真っ当な育ち方をしており、王宮では神官団の指導者とされるアクナディン(実は父親)に目をかけられ、神官シャダや神官マハードを始めとする同僚の神官たちに対しては異常に支配的に振る舞いやりたい放題。しまいには何の罪もない民衆の中から素養のある人間を探し出して魔物(カー)を抽出して軍備を増強しようとか言い始めます。

 ↓ ここまで徹底した冷酷ムーブを描いておきながら、本来なら海馬(義理の父親への憎悪と勝利への執着とかろうじて残った弟への愛情がアイデンティティとして描かれていた)を間接的に掘り下げるためのキャラであったはずの神官セトに、愛する女()を殺した憎き父親に対して『恩義を忘れえぬ』とか賢明なことを言わせてしまう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『魔物が憎しみによって力を得られるならば…権力によってその者に究極の苦痛を与えればよいだけのこと…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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『わずかな民の犠牲など…王家の谷の石コロにすぎぬ…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 作品としての一貫性の無さも問題ですが、他のキャラクター達を神官セトの悪人ミスリードのための踏み台ておいて、あとになって実はいい人だったように描かれ、いざキサラが殺されるとある意味悲壮な感じでファラオを裏切るという(実際に描かれた本編では順番が前後しているが、やむなく変更されたという本来の構想では自分の意思で明確に裏切っていた)……要するにキサラを描きたい、神官セトは悪い奴にしたくないという……この作者都合とでもいうような展開に説得力があるのか?

 ぶっちゃけ海馬がブルーアイズに固執する理由はこれまでのストーリーの流れからすれば「最強だから」で済む話しなので、義父との確執エピソード以外の深い掘り下げはさほど重要ではない。神官セトがファラオを裏切る動機なら玉座狙い、自分が王になり頂上に立つためでも十分です。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 しかも海馬はバトル・シティ編のラストで憎しみの象徴であるアルカトラズを海に沈めたことで、義父への憎悪に囚われた人生に決着をつけ、本来の人生の目的である『世界海馬ランド計画』のためアメリカへと旅立ちました。

 神官セトがキサラの光に救われることで間接的に海馬も救われるようなシナリオ構造にそもそもなっていないし、その必要もない。むしろキサラが神官セトを救ったことで因縁の石版が友情の石版になってしまい、現代においても海馬が憎しみを刻みつけられていることの象徴的な意味合いがほぼ消えてしまっています。なにかバトル・シティ編でチラ見せされたブルーアイズを擬人化したような女の子が出てきて悲恋の物語が始まり、前世の海馬はファラオ(闇遊戯)を敬愛していて被差別民の少女を庇護する優しい善い人でした、みたいなよく分からない話しにしか見えないのです。セルフ同人誌かな……?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 キャラクターに深みを与えるという意味では「キサラ」自体は決して要らないエピソードということはないが、他を端折ってまで本編にねじ込むべきではなかったように思います。それこそ他をきちんと描いたうえで番外編としてやるか、原作者自身が同人誌を出した方がいい。(連載の都合はともかく、神官セトが裏切ったのには実はこういった背景が…という風に後から掘り下げることだってマンガの構成としては可能だったはず)

 

肌の色で弱者を差別する古代エジプト人?

さらに、おそらく原作者は民衆から迫害を受けるキサラの姿をマンガの中で描くことで、我々の現実の世界における人種差別の問題をも描こうとしていますが……

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『我々とは異なる白い肌ーー!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 自分たちを征服しようとする異民族だから憎むとかではなく、ほとんど観念的に、「肌の色が自分たちと違うから」という理由で他人を憎む・見下すという概念……これは近世に入ってから、主には「白色人種から有色人種への差別」として広まったものでは……?

 いや……もちろん現代社会への問題提起のための象徴的なシーンとして描かれてるのは分かるんですけど……いくら創作上の物語とはいえ「肌の色で人を憎む」という概念が存在したかもよく分からない古代エジプトの民衆を一方的に悪役にして、真っ白な肌と髪で消え入りそうな容姿のキサラが『我々とは異なる白い肌』とか言われながら石を投げられ、一見すると権威主義の冷血漢に見える神官セトが権威によって愚かな民衆を蹴散らし、か弱いキサラをかばう、それも『肌の色ごときで』とか言いながら。構図としてあまりにも美しく作者本位であると同時に、それは  “ 出来すぎ ”  じゃあないでしょうか。フィクションとしてさえ説得力のある描写とは思えませんでした。

 まさしく絵に描いた悲劇のヒロインとそれを救うツンデレ王子様といった具合の安っぽいムーブと場違いな社会派メッセージが途方もなく素人くさいですなんでもかんでも道徳のお説教を込めれば深イイ話しになるってものでもないし、そもそも海馬とブルーアイズの関係性ってそんなに重要なんでしょうか。

 というかもう、なんなんだこれは? まず人種差別のメタファーとかこれまでの遊戯王のテーマやストーリーに関係ないのに唐突すぎるし、作者の個人的な思い入れが特定キャラに偏りすぎだし、そういうのが描きたいならそれはそれで立派なアイデアだからそれ用の他の作品かせめて番外編で描くか、同人誌でも出してくれ!

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『肌の色ごときで弱者に石を投げつけるなら……本当の身分の差というものを貴様らの肉体に刻みつけてやろうか!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 王宮では仲間に対して思いやりもなく自分より力が弱い(と自分が思っている)人間を露骨に見下して横柄な態度をとるようなキャラクターに、正義の水戸黄門をやる資格はありません。

というか民衆の労働によって王族や神官たちの生活が支えられているのに、わずかとはいえその民の犠牲を石コロと思ってる奴に道徳を説かれたくないわ。

 もちろんどこの時代、どこの国にも差別はあるでしょう。一説によると古代エジプト人は自分たちの赤銅色の肌を出すことを誇っていたそうなので、もしかするとそうでない肌色の人々を災いや揉め事の元とみなして差別していたのかも分からない。しかし少なくとも、古代エジプトに関して特別な知識のない、浅学なただの現代人のいち読者として、私は作中の描写に違和感を覚えました。

 そもそもわずかな民の犠牲など王家の谷の石コロにすぎないという神官セトの倫理観じたい、現代の人権思想からすればそれこそ人権を軽視した非人道的な考えなので、その神官セトに現代の人権思想を持ち込んだ文脈で差別を非難させるのはあまりにナンセンス。(なにも深く考えず原作者のイデオロギーをキャラクターに代弁させるから、こういうチグハグなことが起こるんだよ…)

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『いいぞ! 海馬に似た人!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 しかも、肌や目の色を理由に弱者に石を投げるような浅ましい民衆として描かれた直後なので、一見すると神官セトの行為は現代人から見ても正当性があるように見え、悪人ミスリードからの流れでこのシーンを描くことで、権威主義の悪人である神官セトがむしろ正義を行っているかのような倒錯感とカタルシスを得る(スカッとする)ように描かれている。

 要するに神官セトは 「身分差には厳しいが、弱者には手を差し伸べ、いわれなき差別は許さない」 、冷淡に見えて根は善人であり自分なりの正義を貫いていると。その身分差はそもそも権力者が自分たちに都合良く民衆を支配するために定めているものだし、手を差し伸べるべき弱者とそうでない者の選別は権力者の側である神官セト個人の独断でしかないのに、その神官セトが差別反対ムーブを繰り広げ、まるでヒーロー扱い。

どこまで作者本位で自分勝手な理屈だ。

作者の望む展開を描くために、どれだけ無神経に他のものを踏み台として使ってんだ。

 キサラの容姿に恐怖や憎悪を抱く古代エジプト人のくだりは原作者の創作だと思いますが、災いに関わる信仰は古代エジプト人にとってはそれこそ自分たちの生き死にに関わる重大な関心事であって、現代人(原作者や読者)の価値観で安易に非難すべきではない。より正確に言うなら、古代エジプト人の無知や信心深さを   “ 差別批判 ”   のための単なる舞台装置のように使うなど、マンガの題材として借りているにすぎないくせに古代エジプトへのリスペクトが欠如しています。そういったことを、この原作者は考えた上で創作や表現をしているのでしょうか…?

 

神官セトって次期ファラオとして相応しいか?

 さらに悪いのが、先王アクナムカノンやアテムのことは一部  “ 権力批判のまと ”  にして描いておきながら、力や権威を振りかざす神官セトの傍若無人な振る舞いはキサラとのエピソードや『全てはファラオをお守りするため』等のもっともらしい台詞によって美化し、最終的にその神官セトがあとを託されファラオとなり栄光を掴むというダブルスタンダード

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『「正義」を旗印に権力をふりかざし脅威となる者を皆殺しにする… それは真の正義か…悪なのか…』

高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『貴様の父親の罪を 死をもって償え…ファラオ…』

高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 「善ってなんだ? 悪ってなんだ? お前のやってることは正しいのか?」という一連の描写によって、原作者は、罰ゲームで悪人を裁いてきた闇遊戯(アテム)の勧善懲悪ダークヒーローとしての根幹を揺るがすようなテーマを描きました。これは多角的な視点からの描写に成功しているというより単にテーマが散らかっており、作者のその時の気分で描きたいと思ったことによりキャラクターの言動やコンセプトがコロコロ変わっています。要は自分のイデオロギーを表現するために自分のキャラクターを生贄に捧げたわけです。

 一方、神官セトは権力に取り憑かれた父親の凶行によりキサラを失うという形で報いは受けるものの、それすらキサラとの悲恋のような関係性を描くための装置であり、メタ視点からは報いでもなんでもありません。

 「美化」という表現が比喩にならないほど、神官セトの描かれ方は悪人風から善人風へと変わります。当初の構想ではキサラを殺害されたことでファラオを裏切り第三勢力になる予定だったとのことで、その動機の悲劇性から神官セトとブルーアイズを光の勢力(善寄りの勢力)と解釈する向きもあるようですが、神官セトの冷酷な行いに対して筋が通らないし意味が分かりません。善と悪に境界はない、神も邪神も同時に心に宿すことができる、それが人間なのだ。とか言いたいんだろうか……。

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『これは「人狩り」などではない 「魔物狩り」なのです…』

『時に我ら神官がファラオの影となり闇の権力で王宮を守ることも必要なのでは』

高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『官位につき…まだ半人前だった私に規律・道徳…哲学を教えて下さったのはアクナディン…あなたではなかったか…』

高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 平然と仲間の精霊を生贄にして自分の精霊を強化し、『我ら神官がファラオの影となり闇の権力で王宮を守ることも必要』とか言いながら人狩りを強行し、囚人同士を殺し合わせる人体実験に加担していたキャラクターに『道徳』…? 身分の差は古代エジプトの『規律』だから『わずかな民の犠牲など王家の谷の石コロ』という考えも正当だと?

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高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社
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『町で捕らえた囚人共はその方法を探る実験材料にも使えましょう 必要とあらば いかなる責め苦を与えることも…』

高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 上の引用画像は、神官セトが町で実行してきた「人狩り(魔物狩り)」の成果をアクナディンに報告するワンシーンです。

 神に匹敵する精霊から最大限の力を引き出す(そして兵器にする)ために、必要とあらば町で捕らえた囚人にいかなる責め苦を与えることもいとわない……これは国を守るためだと言って盗掘村の住人(罪人あるいは罪人予備軍)を虐殺して生贄に捧げたクル・エルナ村の事件と、規模や程度の違いこそあれ根本的な発想はまったく同じです。神官セトのやった(加担した)ことは、全てはファラオをお守りするためとかいって美化されるようなことでは決してありません。

 先王アクナムカノン治世下での虐殺など為政者の負の側面を強調し、盗賊王バクラにその罪を糾弾させておいて、それと同質のことをなんのためらいも罪の意識もなく正義として行っていた神官セトが、先王の息子である現ファラオから跡を託され次代のファラオになる。この展開のどこに説得力があるのか、先王の(というかアクナディンの)罪と向き合えずに苦しんでいたアテムが神官セトのどこをみて自分の跡を託そうと考えたのか教えてほしい。アテムは父親と同様、神官セトが黙って行っていた人狩りや人体実験の真実を知らなかったのか…

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『王国の基盤を揺るがす元凶は 体制・権威に対する反逆者なのだ!』

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『いずれ神が天罰を下すぜ…白き龍の神がな…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 シーンが前後しますが、上の引用画像は神官セトが実際に町で「人狩り(魔物狩り)」を行なっている最中のワンシーンです。

 体制・権威に対する反逆者(予備軍)を捕らえて反逆の芽を摘む……もう我々の現実の世界で かの国 とかが人民に対して行っている独裁政治とかと発想がまるっきり同じ。これもひょっとすると現実社会への問題提起てきな暗喩シーンなのかもしれませんが、この後に神官セトは神に天罰を下され横暴な権威主義の考え方を省みるどころか、神(白き龍の器の女性)とロマンスを繰り広げて加護を受け、ファラオのしもべであるマハードを蹴散らして白き龍の神によって(先王の息子であるファラオに)天罰を下す側になっており、『天をも震わす我が龍の力…貴様の魔術師ごとき聖なる力で跡かたもなく消し去ってやるわ!!』という台詞だけは謎にしっかりと回収。成り行きとはいえ自分がファラオの地位にまで上り詰めてしまいます。もう、作者本位のやりたい放題もたいがいにしろと……。

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『天をも震わす我が龍の力…貴様の魔術師ごとき聖なる力で跡かたもなく消し去ってやるわ!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 アクナディンの過去の悪行と、そのアクナディンの息子がセトであるという事実はなぜ誰にも突っ込まれず、親子愛の描写や神官セトが根は良い人であるというような描写の方に比重が置かれているのか、マンガの描写として非常に不可解です。アクナムカノン王とアテムがいわゆる  “ 権力批判 ”  のまとになっている描かれ方とは逆行しており、作品テーマが破綻しています。

 国を守るために99人の生贄が必要と分かった上で先王アクナムカノンが決断を下したならまだしも、『七つの秘宝』の存在を先王に吹き込んで焚きつけたのがアクナディンなら、その製法を故意に隠し、虐殺を主導したのもアクナディン。あげく自分が王になれなかったからといって息子を王にしようという邪念に囚われ、より大勢の被害者を出した。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

親の代の咎を最も責められるべきなのはアテムではなく、神官セトなのでは…??

 そのことでアテムのように苦悩するわけでもない(愛するキサラを殺害した張本人が父親であることと、それでも恩義を忘れえぬ相手であることの狭間で迷いはしたが…)。しかも、アクナディンの行った虐殺と同質のこと(人狩り=魔物狩り、つまり国や王を守るために人権を軽んじる行為)を自分も率先してやっていた。その最中にキサラと白き龍を発掘しそれを自分のものにしようとし、囚人たちの人権を踏みにじり、倫理や道徳の観点から思い直したというよりキサラに惚れたから気が変わった……キサラを殺害して精霊を抽出するという一点において迷いが生まれた……というだけ。

 神官セトは本来、海馬瀬人と同じく目的のためには手段を選ばない冷酷なキャラクターであり、最初はその様に描かれていました。それをロマンスありきでとつぜん善人のように扱い始めるくらいなら、冷酷なキャラクターは冷酷なままで、キサラを愛してしまったがゆえの苦悩とかを描かれた方が説得力があります。

 王国への忠誠心やアクナディンへの尊敬やキサラへの愛(ゆえに、闇に魂を売らなかったこと)と、上に立つ者としての資質や統治に対する考え方って、まったくの別問題ですよね……。(民をかえりみず少数の犠牲を切り捨て、軍備の増強を優先させる為政者を作品として肯定するなら話しは別だが)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 おそらく古代エジプト第19王朝の「セティ1世」を意識しての描写だと思いますが、ファラオとなったセトがアテムの意思を継いで、べつに愛しているわけでも尊敬しているわけでもないような自分にとって死んでも何とも思わない石コロほどの他人の痛みや苦悩を想像できる人物になったのか、その部分の描写がまったく無いままシチュエーションだけにこだわっているので流れが非常に唐突です。

(ファラオとなったセトの後ろに神官アイシスの姿が見えますが、神官時代さんざん傲慢な振る舞いをして仲間の神官たちを見下した態度をとりゾークとの決戦では途中で姿を消していたセトがファラオとなって自身の上に立つことに彼女は納得したのか、はなはだ疑問です。アニメ版ではゾークとの決戦に最後まで参加していたが、そんな程度のフォローでどうにかなる問題ではないです。)

 一応、盗賊王バクラや大邪神ゾークとの決戦ではファラオや他の神官たちと連携しながら戦う様子が描かれていましたが、それも途中で投げ出してキサラを救出に向かってしまうし、単に最期の決闘でファラオのブラック・マジシャンを力で蹴散らした(その流れでキサラに諭され正気に返った)だけでは、神官セトが次期ファラオとしての器を備えた人物であることの証明にはなり得ません。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 決闘で正式に勝ったらファラオの称号が得られる……遊戯王の世界の古代エジプトではそうなのかもしれない、あるいは単に神官セト個人の思想なのか。しかしそれは決闘での強さ=力の強さこそが正義であるという考えに他ならず、「友の力」「絆の力」こそが最も強く正しい力である…という本作のテーマともケンカしています。決闘の強さは精霊との絆の強さですか? ならファラオとブラック・マジシャン(マハード)との絆は、正気を失った状態の神官セトの白き龍に石板を壊されただけであっけなく蹴散らされる程度のもの、ということでいいですか?

 原作者のやりたかったことは分かるが最低限の筋は通さないと、作品としての説得力は落ちます。

 

 

3.作者の望む展開のために割を食ったキャラクターたち

 

消滅してしまった  “ バクラ ”  のシナリオ

 最終的には作者自身の体調不良によって本来のストーリーを大幅に変更・省略せざるを得ず、アニメオリジナル展開はキサラ関連やマナ(ブラック・マジシャン・ガールの代替)など一部のキャラクターにスポットを当て続けた結果、盗賊王バクラ、表人格の獏良了、神官マハードのようなどうしようもないメインキャラが生まれてしまった。こうした他のメインキャラたちが雑な扱いで済まされているせいで、本来なら良いアクセントになったはずのキサラ関連エピソードも蛇足に見えてしまう。

 おそらく原作者はアクセントどころかメインの柱の一つとしてキサラのエピソードを描きたくなってしまい、神官セトが悪者にならないようキサラを殺して白き龍 = ブルーアイズの魂を抽出する流れを作り出すために(あと親子の愛憎劇を展開するために)アクナディンというぽっと出のボスキャラを作った。そのアクナディンが盗賊王バクラの元々の役割を吸ったので、虐殺を生き残った復讐者である盗賊王バクラが大邪神ゾークと契約し死霊の軍勢を率いてファラオと激突する…という因果応報をテーマとしたシナリオが文字通り消滅してしまったのではないか……というような憶説すら浮かびます。

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『その時オレは…冥界の大邪神の闇の力を得ーークル・エルナの同胞の怨念と共に…世界を盗む!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『「千年アイテム」とは時を超えて古の「心」を宿すことのできる墓標…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『その闇に封印された邪悪なる力を手に入れるためだ…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 本来のシンプルな設定は、千年リングに宿った盗賊の魂( 心 )が宿主を得て現代に蘇った存在 = 闇バクラです。そもそも千年アイテムを集め『闇の扉』を開いて邪悪なる力を手に入れること(つまり『冥界の扉』を開いて大邪神ゾークと契約すること)が闇バクラの目的だったはずなのに、その大邪神ゾークが闇バクラ自身だった(?)という話しになってしまいました。これはバクラではなくアクナディンが大邪神ゾークと契約するシナリオに変更されたからではないでしょうか?

 元々の『ゾーク』は作中に登場するTRPG『モンスター・ワールド』のキャラクターであり、古代エジプトとは関係ありません(元ネタは実在のアドベンチャーゲームであるZorkシリーズ)。ゾークは闇バクラが操る持ちキャラで、TRPGゲームマスター(支配者、神)である闇バクラの分身としての駒でした。それがファラオの記憶編に入っていざ蓋を開けてみると、闇バクラがゾークに操られる手下(駒)になっておりキャラクターの役割がまるで逆転してしまいます。

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『ゾーク・ネクロファデスはこの千年輪にも魂の一部を封印していた』

『そう…オレ様の正体もまた ゾーク・ネクロファデス…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 闇バクラの本当の目的は自分自身(大邪神)の力を復活させることだったとか、彼もアテムと同じように最初は(一部)記憶喪失だったとか、闇バクラ自身が大邪神ゾークなのでモンスター・ワールドの自キャラにゾークと名付けた等々、解釈はいくらでも出来ますが、つじつまが合えばいいとかそういう問題ではありません。

 オリジナルの存在である盗賊王バクラが真に復讐すべき相手は、独断で虐殺を主導した黒幕であるアクナディンです。しかし盗賊王バクラはそのアクナディンに利用し返され、死後は千年アイテムを集めるための駒としてゾークに利用され……という話しになってしまいました。『世界を盗む』とタンカを切らせておいて、悪役としては最低の扱いです。こうした一連の設定変更は、原作者がキサラとセトとアクナディンのエピソードを描きたいから周辺キャラクターの役割を変えていったため副次的に生じたつじつま合わせであり、闇バクラや盗賊王バクラというキャラクターをより良く表現するための設定変更ですらないのです。

 

最後に・・・

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

 城之内と闇遊戯が誓い合った決闘も作中で実現していないし、海馬は神官セトの生まれ変わりのように描かれているのに表遊戯とアテムは完全に別人扱いになってしまったのも作品の世界観として致命的な矛盾をはらんでいます。

 アテムと表遊戯のラスト決闘でも相変わらずルールは曖昧だし、これまでずっとエースを張っていたブラック・マジシャン師弟をサイレント・マジシャン1体にまとめて倒されてしまうという、 " 成長しレベルアップした表遊戯が闇遊戯を超える "  というシナリオありきのゲーム展開でした(原作の闇遊戯は意味不明なタイミングでマジシャンズクロスを発動しプレイングミスを犯している)。

 「遊戯 王」や死者蘇生のカードが示唆するメッセージなどの "ギミック" に頼って表遊戯を真の主人公に推すことでなんとかストーリーを着地させた……というような状態……。

 古代エジプトをテーマとした神秘的な世界観や魅力的なキャラクター、マンガの絵として他に類をみなかったほどにキャッチーなカードバトル、こんなにも粒はそろっているのに料理があまりにずさんで、それが非常に惜しい作品であります……。

 多くを求めることを許されるなら、「史実編」というような形で不憫なキャラクターたちが少しでも救済されることを願っています。

 

おわり