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映画DSODでどうしても「?」と思ったこと。海馬は死んだ??【遊戯王 感想 考察 劇場版 原作】

 

※この記事は、マンガとしての遊戯王が好きだからこそ当時は声を大にして言うことがはばかられたモヤモヤを今になって吐き出して自分の中で整理するための雑記であり、他の方の考えを否定したり、作品を貶めるものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。

 

 

 

 

1.はじめに

このブログ記事を書いているひとは遊戯の声が緒方恵美だった頃のアニメを見て育ちましたが、それ以降は某動画サイトでネタにされているのを見かけるくらいで、他の遊戯王シリーズにはほとんど触れることなく劇場版THE DARK SIDE OF DIMENTIONS(以下、映画DSOD)を観て遊戯王にハマりました。

観る前:あ〜遊戯王か〜途中で声が変わってカードゲームやるようになってから全然見てないんだよな〜MADとかネタのイメージしかないけど映画なら体力使わないしちょっと見てみるか〜

観た後:ちょ……原作全巻買ってくる

なんの予備知識もなく見に行って一瞬で心を鷲掴みにされ、本作が単発の映画として桁外れに魅力的で優れた映像作品だったことは疑いようもありません。

しかしながら、後追い的に原作を読み進めた私はかえって映画DSODのストーリーに奇妙さを覚え、ハマったきっかけの作品に対して疑問を持つという見事なこじらせを発症。

本稿はなんでそんなことになってしまったのか自分の頭の中を整理する意味での雑記であり、他の方の考えを否定するものでは決してないことを何卒ご承知おきくださいませ。。

 

 

2.「世界海馬ランド計画」どうなった ……?

 

原作バトルシティ編の終わりで海馬は養父への憎悪と向き合い 、幼い頃からの本来の夢である「世界海馬ランド計画」 のためアメリカへと旅立ち、メインキャラとしての区切りを迎えています。なので遡って原作を読んだとき、私は映画DSODのストーリーに少し違和感を覚えました。

もちろん、映画DSODでの結末もあり得る1つの未来だと思います。しかしこの映画での後付けのせいで、海馬は結局、目先の勝ち負け( 幼少期に義父から与えられた屈辱やトラウマを思い起こさせるもの、敗北=死という呪縛) に囚われ続けているキャラになってしまった。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画DSODを初めて観終えたときの私は、原作での海馬は闇遊戯との決闘に関してよほど悔いの残る終わり方をした(決着がつかないまま中断してしまったとか)か、他の重要キャラに枠をとられてかなり中途半端な扱いのまま本編が終了してしまったのだろうと思っていました。しかし実際に原作を読んでみると……

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『海馬… 今は敗れて憎しみに打ち勝て!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『瓦礫の底に眠る…オレのロード(夢)…』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

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『海馬くんは新たな夢に向かって旅立ったんだね…』

『ああ』

『そして…もう一人のボクの記憶探しの旅も今 始まったんだ!!』

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

あれっめっちゃいい感じに終わってね??!

確かにバトル・シティ編で海馬は闇遊戯に敗れています。そこで海馬は敗北という目の前の憎悪と同時に義父への憎悪とも向き合い、その象徴であったアルカトラズ(憎しみの塔)を爆破し海に沈めました。闇遊戯との決闘も、幼少期のトラウマも、マンガの話しとしてはいったんそこで決着が付いていたはず。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

なのに映画DSODではそんなこと無かったかのように、その憎悪を闇遊戯(アテム)との決着に対する「執着」という形でさらにこじらせている。

あの話しって原作本編が終了から半年後とかの設定ですよね…原作の続編と銘打っておきながら、もうこの時点で原作のストーリーを踏み倒しにきてます。

勝ち負けそのものというより好敵手としてのアテム個人に執着している(アテムが自分に無断で冥界に還ったので躍起になっている。アテムとの決闘を愛している。)というような解釈は一応成り立つものの、なら海馬はなぜ遠く離れたアメリカでの事業のため旅立ったのかという話しになるし(活動の拠点をアテムのいる日本からアメリカに移す= "アテムに関係なく自分の道を行く" って意味だよな…?)、彼の本来の夢である「世界海馬ランド計画」を放り出してまでアテム個人に執着し続けるというのは、もはや作中に描かれたキャラクターのアイデンティティが崩壊しています。(むしろ同人誌であれば好きな展開です)

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

映画本編とその前日譚である読み切りマンガトランセンド・ゲーム』おいて、海馬はかなり本格的な軌道エレベーターと宇宙ステーションを作りあげ、アテムを地上に蘇らせること、そして次元上昇の方法を探っていました。あれだけ大がかりな宇宙開発を一企業が行うには、社運をかける勢いで巨額の予算を注ぎ込み海馬自身もそれにかかりきりでなければならなかったでしょう。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

幼い頃の海馬が弟モクバと誓い合った夢「世界海馬ランド計画」は、次元上昇(アテムのいる冥界へ行くこと)を最終目的とするニューロンズ計画」へとすげ替えられてしまいました。バトル・シティでアテムとの決闘に敗れ、そのリベンジマッチを果たせなかったという理由だけで。

 

海馬というキャラクターの終着点 2020.5.25 追記

幼少時代の海馬は『世界中に遊園地を作ること』が夢だと語っていました。それは海馬ランドという  " 箱モノ "  を作ることではなく、幼少期の自分たちのような施設で暮らす子どもであっても、誰でも、みんなが遊べる空間を作ること。それが海馬の夢です。

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(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

そう考えると、最終的な目的は次元上昇にあるとはいえ「デュエル・リンクス」という世界を作りあげたことで、一見すると海馬の夢は形になったかに思えます。「海馬ランド」という前時代的な箱モノ計画が、端末さえあれば誰でも世界中どこからでもアクセスできる、時代の最先端を行くバーチャルリアリティの世界へと昇華されたわけです。となれば、もはや現世に悔いなしと会社を弟に託し、冥界へ行くという流れが生まれてもおかしくないように思えるかもしれません。

しかし、ここで我々が思い出すべきなのは、海馬というキャラクターの終着点、ゴールがそもそもどこにあったのかという話しでしょう。それは、義父にイカサマゲームを仕組んだことをきっかけに捻じ曲げられ、海馬が失ってしまったもの。目的を果たすための単なる手段としてではなく、弟や仲間たちとただチェスを楽しんでいた本来の「心」を取り戻し、幼少時代の純粋な夢を思い出す(叶える)ことです。

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『あの日…イカサマゲームなんかやらなければ…兄サマは昔の兄サマのままでオレのそばにいてくれたかも知れないのに

『今 海馬は闇の中で自分の「心」のかけらを拾い集めている…』

(©︎ 高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬は単に慈善活動がしたかったわけではない。親はいなくとも施設で過ごした楽しい思い出があるからこそ、自分と同じ境遇の子どもたちとそれを共有したかった、そのための場所が『この施設にいるような 親のいない子供はタダで遊べる遊園地』なのであり、「海馬ランド」です。それこそが、原作DEATH-T編から繋がりバトル・シティ編のラストで提示された海馬の未来、彼のだったはず。

「デュエル・リンクス」の世界に海馬の夢はあるでしょうか……?無いですよね。少なくとも映画や前日譚の中で描ききられている内容を見る限りでは、リンクスの世界は海馬にとってあくまで次元上昇を叶えるため、アテムとの再戦を果たすという目的のための手段の一つです。これが海馬の夢であり終着点(ゴール)だと言えるでしょうか……?

(おそらく劇場版DSODの制作陣は、というか原作者でさえ、あまり昔に描いたことを意識して作品を作っていないと思います。当ブログみたいに細かいことをいちいち気にしてその場のノリで全てを楽しむことができないようなタイプの読者・視聴者をこのコンテンツはターゲットにしていないでしょう。言ってしまえばこのブログ記事そのものがナンセンスです。ラーメン屋に入ってパスタを要求しているようなものなので…。パスタを食いたいならサイゼ行けばという話し。)

 

 

3.「原作の続編」としてこの映画を作った意味……?

 

映画DSODの海馬は一見すると超ストイックに自分と向き合っているようでいて、闇遊戯に "敗北した" という事実と向き合えておらず、打ち勝てていない。敗北した自分を受け入れられない、許せないからこそアテムの影に囚われ、再戦を願う。これでは義父の呪縛にも未だ囚われたままということになりませんか?

他のキャラクター達は未来へと一歩を踏み出していく中で、海馬だけがアテムとの勝ち負けにいつまでも執着し続け、最後は自身の夢を担う会社も大切な弟も全てを置き去りに、冥界へ行ってしまう。

結果として海馬は好敵手アテムとの決闘に全てを捧げました。この映画のストーリーは胸躍る熱い物語であり、ラストシーンは壮絶で感動的であり、海馬の人生は痺れるようなカッコイイ生き様です。しかし、「原作の続編」と銘打ってこの話しをやる必要があったんでしょうか??(エンドロールの後で冥界から無事帰還する海馬の様子が描かれてたならまだ納得できた)

 

目的のためには手段を選ばず、命すら投げ出してしまう海馬の姿勢は、ヒロインである杏子によって一度完全に否定されています(この時の海馬は自分のためではなく弟のモクバを救うために闘っていました)。王国編でのそのシーンは作品テーマに関わるものであり、読者への提示でもあったはずです。『どんな時でも自分の手の中で命のチップを守り続ける』、つまり表遊戯のような人こそが本当に勇気ある芯の強い人なのだと。

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

この海馬の生き様もまた強さの一つだと言うなら、原作の続編を銘打った映画として、過去に作中で描いたことに対する反論をしっかりと筋を通して描くべきではないですか? (映画DSODでその海馬の生きざまが肯定的に描かれたこと自体はすごい嬉しかったです。)

仮にアテムとの決闘に勝ち、冥界から帰還できたとして、長い人生の中では負けることもある(それでも憎しみに打ち勝っていかねばならない)ということに海馬は耐性が無いままです。その様な状態で、海馬は王国編やバトル・シティ編をやっていた当時から成長したと言えるのでしょうか……?ましてや冥界に行ってそれきり(現世の人からすれば海馬は亡くなった)という最期で筋が通るでしょうか……?

というか古代では(やむなく変更されたという本来の構想では)キサラの復讐のためアテムを裏切り、現代になると今度はアテムのために全てを投げ出し、やっていることが少し刹那的すぎやしませんか……?

もちろん神官セトと海馬はまったくの同一人物というわけではないし、海馬の幼少期からの傷痕がそんなすぐに癒えるわけもないでしょう。それでも海馬の人生はカードゲームのためにあったわけではないし、 闇遊戯との決闘に負けたことで人生そのものをつまずかせてしまうようなキャラでもない、だからこそ弟のモクバと共にアメリカへ旅立って行ったのではなかったですか?

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(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス/集英社

海馬と闇遊戯のそれぞれの闘い、闇遊戯は自分探し(記憶をめぐる闘い)、そして海馬はこれからも「義父への憎悪」と向き合っていく。勝負には負けたとしても憎しみに打ち勝っていくため、『己の中に巣食う憎しみという魔物』との終わりなき闘いのロードを歩み続けるため。闇遊戯に勝った負けたとかよりも、もっと大きな目標、本来の海馬自身の本当ののために。

 

 

4.海馬は冥界に行ったたま帰ってこない(死んだ)のか?

 

結論を言うと

死んでない

と思います。(臨死体験くらいはしたのかもしれないが……)

藍神との決闘が終わりアテムがまた冥界に帰って行った直後のシーン。海馬は表遊戯のことを一人の決闘者として認め、微笑みをたたえて去っていきます。そこでの様子から、自分が認めた強い相手との決闘を純粋に楽しむというような心はどこかに芽生えている印象を受けました。しかしやはり、そもそもの海馬の人生の目的は強い相手と決闘をすることでも、アテムに決闘で勝つことでもましてや愛だとかのためでもない。

海馬は未来へと進むために冥界へ行ったはずです。

アテムとの決着のため冥界へと突撃していくラストシーンは、このまま過去(アテムの影、敗北=死という呪縛を海馬に植え付けた義父の影)に囚われながら生きるくらいならリスクを冒してでも冥界へ行き、過去に対して決着をつけるという海馬の未来への意志であり、決してゴールではない、再出発のスタートラインです。

未来へと一歩を踏み出していくキャラクター達を描いたこの映画のテーマに対する回答があのラストシーンであるなら、海馬は冥界へ行った後(アテムとの決闘の勝敗がどうであれ)現世に帰還しなければならないと当ブログは考えています。(これは当ブログが勝手にそう考えているというだけの話しであり、他の方の考えを否定するものでは決してないです)

弟のモクバに後を託すような言動が随所で見受けられますが、トップとして優秀な人ほどもしもの場合を考えて手を打っておくものだと思います。弟に自分がいない間の会社を託すことと最悪の場合は死をも覚悟していること、この二つは矛盾しません。

ラストシーンで海馬が冥界にたどり着きアテムと出会ったところで物語の幕が下りるのは、そこでの決闘を最期に海馬の人生(ストーリー)も終わるということではない、ここまできてアテムと海馬のどっちが勝つとか負けるとかの話しをするのは野暮であり描く必要がないので、勝負の行方を視聴者にゆだねるための演出上の構成でしょう。

 

追記:このラストシーンで海馬が向かった先が「過去の世界」ではないことは原作者が明言しています。

 

 

原作者によって提示された『ひとつの未来のストーリー』

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Instagram

(©︎高橋和希 スタジオ・ダイス)

原作者のインスタグラムで公開されたイラスト等をみるに、原作者個人の中では海馬は冥界に行ったまま帰らない=死んだ…のではなく、現世で表遊戯(自分が認めた相手)と新しいゲームの世界を創造していくというような未来が想定されているようで、個人的にはかなり安心しました。そうそう!!それだよそれ!!!!ありがとうマジで!!!

原作者は例のイラストを公開した自身のインスタグラムで『これもひとつの未来のストーリーです』とコメントしていますが、その真意はおそらく(多分)、劇場版DSODのラストシーンは観る側に解釈を委ねるように描かれているのに原作者が結末を提示して受け取り手の想像を縛ってしまう……という事態を避ける意図があったでしょう。あのインスタグラムの世界はいわばファンサービスという文脈の中で原作者が個人的に描いたイラストを公開したものであって、正規のプロの仕事としての表現ではないし、そういう方法で作品を補足するというやり方は王道ではありません。

しかし当ブログは原作者が提示したひとつの未来をめっちゃ支持します。

 

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